妖魔夜行 戦慄のミレニアム(上) 山本弘 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)彼女は心に誓《ちか》った。 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大|地震《じしん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目次  プロローグ 胎動  1  <ブラックバード> と少女  2 カウントダウン  3 炎に散る  4 黙示録の宜八実  5 滅びの夜  6 死闘の果てに  インターミッション夜明け   妖怪ファイル   あとがき [#改ページ]    プロローグ 胎動  タジキスタン共和国南部・アフガニスタンとの国境付近の山岳《さんがく》地帯——  二〇〇〇年一月四日・午後二時三〇分—— 「こいつは……」  そうつぶやいたきり、シャミーリ・アブドラジャノフ少尉《しょうい》は次の言葉が出てこなかった。九年前の動乱以来、多くの戦場を渡り歩き、激烈《げきれつ》な戦闘《せんとう》をいくつもくぐり抜けてきたが、その彼でさえ、これほど異様な惨劇《さんげき》は目にしたことがなかった。  純白の粉雪が静かに降りしきる中、村は完全に沈黙《ちんもく》していた。なだらかな山の斜面に煉瓦作りの家が一〇〇戸ほど並んだ質素な村だ。家屋の多くは強烈な力で破壊され、中には土台しか残っていないものもある。そのくせ弾痕《だんこん》や爆発の跡はまったく見当たらない。まるで竜巻《たつまき》にやられたようだ——だが、こんな季節に竜巻が?  アブドラジャノフ少尉率いる国境警備軍の一部隊は、ロシアから供給されたAKMアサルトライフルを油断なく構えながら、滅《ほろ》びた村に足を踏み入れた。路上には枕《まくら》のようなふくらみがいくつも転がっている。散乱した死体の上に雪が降り積もっているのだ。殺戮《さつりく》はほんの数時間前に起きたらしく、雪は内側から染《し》み出す血で赤く滲《にじ》んでいた。雪が惨劇《さんげき》の光景を和らげてくれていることを、アブドラジャノフは感謝せずにはいられなかった。 「……ゲリラのしわざでしょうか?」  部下のニヤゾフ軍曹《ぐんそう》が不安そうに訊《たず》ねた。アブドラジャノフは即断を避《さ》け、「さあな」とあいまいに答えた。  一九九一年以来、この国には平穏《へいおん》な日がない。南の隣国アフガニスタンに支援《しえん》された国内のイスラム武装勢力が蜂起《ほうき》、さらに旧アフガン・ゲリラやアフガン在住のタジク人ゲリラが、国境を越えて侵入《しんにゅう》してきたのだ。もしタジキスタンがアフガニスタンに併合《へいごう》されることになれは、この国の豊富な地下資源、とりわけウラン鉱脈がイスラム勢力の手に落ちる。事態を重く見たロシア政府は、タジキスタン国内のロシア人保護を名目にこの紛争《ふんそう》に介入、二万人以上の地上軍を派遣《はけん》し、共産勢力であるタジキスタン人民戦線と協力して、イスラム武装勢力と激しい戦闘を繰り広げた。九七年に和平協定が結ばれたことにより、現在はいちおう小康状態を保っているものの、小規模な衝突《しょうとつ》は絶えず、いつまた爆発するか分からない。  もっとも、この内戦はアフガニスタンVSロシア、イスラムVS非イスラムの代理戦争といぅ単純な図式で割り切れるものではない。同じイスラム勢力の中でも、シーア派とスンニー派は昔から犬猿《けんえん》の仲だ。タジキスタンに干渉《かんしょう》しているアフガニスタンの新興勢力タリバーンはスンニー派で、やはりスンニー派のパキスタンから援助を受けている。だが、シーア派の国であるイランは反タリバーン勢力を援助しており、両者は中央アジアを二分して戦いを繰り広げているのだ。さらにタジキスタン国内の軍閥《ぐんばつ》も、地下資源や麻薬の利権をめぐって分裂しており、まるでジグソーパズルのような状況だ。いくつもの国家、いくつもの勢力の思惑《おもわく》に翻弄《ほんろう》され、人口六〇〇万のこの小国は荒廃《こうはい》する一方だ。  戦場の大半が山岳《さんがく》地帯であるため、戦車やミサイルはあまり有効ではなく、必然的に歩兵同士の射撃《しゃげき》戦が主体となる。湾岸《わんがん》戦争のような「相手の顔が見えない戦い」ではないのだ。そのことがいっそう兵士たちを陰鬱《いんうつ》にする。アブドラジャノフ自身、ゲリラとの気の滅入《めい》る戦いを何度も経験し、無残な死体など見慣れていた。  だが、この虐殺《ぎゃくさつ》は異様だった。小規模な牧畜《ぼくちく》で生計を立てていたこの貧しい集落を、ゲリラが壊滅《かいめつ》させる理由など思いつかない。牧場に牛や羊が残されていることから考えて、食糧《しょくりょう》目当ての掠奪《りゃくだつ》ではなさそうだ。  彼はひざまずき、死体のひとつから雪を払いのけた。一人かと思ったら、二人が重なって死んでいた。母親らしい女性の下に、四歳ぐらいの女の子が倒れている。二人とも下半身がなかった。見回すと、五メートルほど離れた土塀《どべい》の脇《わき》に、脚《あし》が四本、もつれ合って落ちていた。  その切断面を目にして、アブドラジャノフは戦慄《せんりつ》を覚えた。カンナでもかけたかのような完全な平面で、ささくれひとつないのだ。いったいどんな刃物を使えば、人間の肉や骨をこんなきれいに切断できるのだろう? 「生存者を探せ」  隊長の命令を受け、兵士たちは散開し、崩《くず》れた家の中やその周辺を調べはじめた。アブドラジャノフ自身も、一軒《いっけん》の崩れかけた家に足を踏み入れた。  家財道具や食器類が散乱する中、この家の主人らしい中年男と、その妻らしい女性の死体があった。二人ともしっかり指を組み、祈《いの》りを捧《ささ》げるようなポーズのまま、前のめりに倒れている。後頭部がえぐられているところを見ると、頭を垂れて命乞《いのちご》いをしているところをやられたのだろう。  隣《となり》の家では、老人と赤ん坊が殺されていた。この老人もやはり指を組み、命乞いをしていたらしかった。アブドラジャノフは老人のポケットから財布を発見した。金目当てというわけでもなさそうだ。  別の家には一八歳ぐらいの娘の死体があった。こちらは胸をえぐられている。嫌悪感をこらえながら下半身を調べたが、暴行された形跡はなかった。抵抗した様子もなく、ほとんど瞬時《しゅんじ》に絶命したようだ。  ますます分からなくなってきた。掠奪《りゃくだつ》や暴行が目的でないとしたら、誰《だれ》が何のためにこんな殺戮《さつりく》を行なったのか。そしで、なぜ銃《じゅう》を使わなかったのか……。 「変ですね……」  部下が気味悪そうにささやいた。 「何だ?」 「男の子の死体がありません……」  アブドラジャノフははっとした。確かにこの村に入って以来、大人の男女と女の子の死体は見たが、少年の死体はひとつも目にしていない……。 「誰か、男の子の死体を見たか!?」  彼は路上に出ると、声を張り上げた。生存者を捜索《そうさく》していた部下たちが、きょとんとして顔を見合わせる。もう一度、アブドラジャノフは怒鳴《どな》った。 「男の子の死体を見たか!?」  返事はなかった。  村からは一五歳以下の少年の姿だけが消えていた。  アメリカ・ロードアイランド州・ナンタケット島|南端《なんたん》——  二〇〇〇年三月一五日・午後四時五〇分—— 「本当だよ! 嘘《うそ》じゃないってば!」  漁師のハリー・ウェンズワースは、崖《がけ》の下を指差し、吹きすさぶ強風に負けまいと声を張り上げた。 「あそこにUFOが墜落《ついらく》してたんだよ!」  地元の警官ジム・ベトルーソは、雨で濡《ぬ》れた草で足を滑《すべ》らせないように注意しながら、崖《がけ》の下を覗《のぞ》きこんだ。予想した通り、異常なものは何も見当たらない。幅の狭《せま》い砂浜に荒波が打ち寄せ、白い泡となって砕《くだ》けているだけだ。 「透明なUFOか?」  ペトルーソがからかうと、ウェンズワースは顔を真っ赤にした。 「きっと波にさらわれたんだ……」 「それとも別のエイリアンが回収して行ったのかもな」 「俺が嘘《うそ》をついてると思ってるのか!?」 「いや、嘘だなんて思っちゃいないさ」べトルーソは微笑《ほほえ》んだ。「確かに何か見たんだろうよ。しかし、お前さんの酒好きはここらじゃ有名だから……」 「とんでもねえ! 神に誓《ちか》って、あれは幻覚《げんかく》なんかじゃなかった!」ウェンズワースは興奮して食ってかかった。「俺は下まで降りて、この手で確かに円盤《えんばん》に触ったんだ。横っ腹にでっかい裂《さ》け目があった。ありゃあ墜落のせいで壊れたんじゃないな。他のUFOとスター・ウォーズでもやったのかもしれん。その裂け目から覗きこんで、懐中《かいちゅう》電灯で照らしてみると……」 「エイリアンの死体があったか?」 「いや、なかったよ。脱出したのかもしれん。コクピットはめちゃくちゃになってて、壊れたパソコンが転がってた……」 「ちょっと待て。何でそれがパソコンだって分かった? エイリアンの機械なんだろ?」 「そりゃあ分かるさ。息子が使ってるパソコンにそっくりだったし、それに……」 「それに?」  ウェンズワースは言いにくそうに言った。「 <IBM> って書いてあった……」 「何?」 「 <IBM> って書いてあったんだよ! パソコンのモニターにさ!」  ペトルーソはこらえきれなくなって笑い出した。文明が何百年も進歩した惑星からやって来たエイリアンが、IBM製のパソコンを使っているとは! 「本当だよ! 信じてくれよ!」ウェンズワースは泣きそうな顔で訴《うった》えた。「こんな嘘ついて、俺に何の得があるってんだ!? 軍に報告してくれ! FBIでもいい!」 「まあまあ」ペトルーソは興奮している漁師をなだめた。「デビッド・ドゥカブニーとジリアン・アンダースンを呼ぶにしてもだ、証拠ってもんがなくちゃな。UFOの残骸《ざんがい》があったけど消えてしまいましたじゃ、誰も信じちゃくれないぜ」 「証拠? 証拠ならあるぜ!」  ウェンズワースはそう言うと、震《ふる》える手でコートの内ポケットから黒い手帳を取り出し、警官の顔に突《つ》きつけた。 「これは?」 「円盤の床に落ちてたんだ。手を伸ばして拾ってきた」  ペトルーソは濡れてふやけた手帳を手に取り、しげしげと観察した。どこの事務用品店でも売っていそうな、ごくありきたりの手帳で、エイリアンが使うもののようには見えない。ぱらぱらとめくってみたが、どのページもほとんど理解できない走り書きや記号でいっぱいだ。  最後のページで、ペトルーソは手を止めた。大きな立方体が描《えが》かれ、その横に <1380M> と書かれている。 「何だ、この <1380M> ってのは? 一三八〇マイルか? 一三八〇メガバイトか? 一三八〇分か? だいたい、何でエイリアンがアルファベットを使うんだ?」 「知らねえよ、そんなことは!」ウェンズワースは苛立《いらだ》っていた。「きっと何かのメッセージなんだ! 科学者に渡して解読してもらってくれ! きっと重大な情報が……」 「ああ、分かった分かった」  ペトルーソは生返事をしたが、公的機関にこの件を通報する気はまるでなかった。もちろんマスコミにもだ。 <ナンタケットにUFO墜落!> などという見出しとともに、タブロイド新聞に顔写真が載《の》ったりしたら、同僚《どうりょう》からどんな皮肉を言われることか……。  もっとも、立方体と <1380M> の意味を知っていたら、彼も平静ではいられなかっただろう。  インド・デカン高原上空・一万二〇〇〇メートル——  二〇〇〇年四月四日・午前一〇時二〇分—— 「マールターンダ師ですね?」  インド航空四七便のボーイング767がハイダラーバード空港を飛び立ってまもなく、ファーストクラスにふらりと現われた男がそう訊《たず》ねた。  マールターンダは読みかけの週刊誌から顔を上げ、丸々と肥《こ》え太った顔に穏やかな表情を浮かべ、その男の姿をしげしげと見つめた。上品な笑みを浮かべた金髪の白人青年で、モデルか映画俳優になっても不思議のない美形である。上流階級のパーティから抜け出してきたような高級なスーツは、ただの旅行者ではなさそうだ。しかし、気配も感じさせず、どうやって入ってきたのか……?  マールターンダはさらなる信者|獲得《かくとく》と勢力拡大のため、世界一五か国に講演旅行に向かう途中だった。このファーストクラスは、彼と秘書のプジャという女性の二人だけの貸切で、フライト・アテンダントにも特別な用がないかぎり立ち入らないように指示してある。世界各地に二〇〇万の信者を擁《よう》する巨大カルトの教祖としては、これぐらいの贅沢《ぜいたく》は当然のことだと思っていた。グルバルガにある彼の豪邸《ごうてい》には、ワニの棲《す》む池があり、旅客機の格納庫ほどの広さのガレージには、ベンツやロールスロイスなどの高級車が八〇台も並んでいる。 「マスコミの方ですかな?」  そう言いながら、マールターンダは青年の頭にそれとなく探りを入れた。しかし、心の中に伸ばした見えない触手は、強小抵抗に出くわしてはね返された。彼ははっとして警戒を強めた。この男、ただの人間ではない……。 「いいえ。あなたにご忠告《ちゅうこく》をしに来たまでです」 「忠告?」 「そう。人間を信頼しすぎるな、もっと警戒《けいかい》しろ、とね」  青年はそう言うと、軽い軽蔑《けいべつ》の混じった視線で、ファーストクラスのゆったりした内装を見回した。 「人間というのはたいしたものです。自分では空を飛べないくせに、鳥に憧《あこが》れ、ついにはこんな機械まで作ってしまった。最初は布張りの凧《たこ》のようなものだったのが、一世紀もしないうちに、ここまで立派なものになった。つい一世紀前まで『空気より重いものが空を飛べるはずがない』と嘲笑《ちょうしょう》していたくせに、何百トンもある金属の塊《かたま》りが空を飛ぶという不自然な事実を、今では誰も疑問に思わない!」  彼はちょっと言葉を切り、マールターンダを見つめて、謎《なぞ》をかけるように言った。 「しかし、あなたまでいつの間にか、それを当然と思ってしまっていたのではないですか? 飛行機は飛んで当然だと……」  賢明《けんめい》なマールターンダは、青年の言外の脅迫《きょうはく》の意味を即座に理解した。 「……この飛行機には、わしらの他に二〇〇人以上の乗客が乗っているんだぞ」  だが、青年は不気味な笑みを浮かべた。 「それがどうしました?」  その瞬間、マールターンダは小さく指を振って合図を送った。  それまで二人の会話を聞いていたプジャが、急に座席から腰を浮かした。奇声を発し、青年に飛びかかろうとする。その背中から黒い翼が一瞬で広がり、茶色の肌はさらに黒く変貌《へんぼう》した。青年に向かって差し出された指の先には、鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》が生えているのが見えた。  だが、彼女は相手に触れることすらできなかった。青年は指一本動かさず、ちらっと目をやっただけだった。二人の間の空気がゆらいだかと思うと、耳をつんざく強烈《きょうれつ》な衝撃音《しょうげきおん》とともに、彼女の身体は座席に叩《たた》きつけられていた。 「ぐぼっ……」  正体を現わしたプジャは、牙《きば》の生えた口から血を吐いてもがいた。だが、青年が静かに手を差し伸べると、その動きは凍《こお》りついたように停止した。鉤爪の生えた指先から黒い色が失《う》せたかと思うと、それがみるみる全身に広がっていった。  数秒後、ボディガードの変わり果てた姿に、マールターンダは驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。プジャは苦悶《くもん》の表情を浮かべたまま、塩の柱と化していた。 「もっと警戒しろ、というのはこういうことです」青年は表情をまったく変えなかった。「空を飛べる妖怪《ようかい》をボディガードにしておけば、万が一事故が起きても安心……などという考えは甘すぎますな」 「きさま!」  白い僧衣《そうい》を引き裂《さ》いて、マールターンダの身体が膨張《ぼうちょう》した。たちまち頭が天井につかえる。その姿も瞬時に変貌《へんぼう》していた。身長四メートルもある豹《ひょう》のような怪物で、頭からは一本の長い角が生え、金色の冠《かんむり》をかぶっている。怪物は怒りに我《われ》を忘れて青年に飛びかかり、頭から食いちぎろうとした。  怪物の顎《あご》が勢いよく閉じられたが、歯はがちりと空しい音を立てた。一瞬早く、青年の姿は消えていたのだ。目標を見失った怪物が怒りの炎を吐くと、ファーストクラスの中はたちまちオーブンのように熱くなり、シートが燃え上がった。  青年は壁際《かべぎわ》に再出現した。炎に囲まれているにもかかわらず、相変わらず謎めいた微笑《ほほえ》みを浮かべている。彼が壁に手をやると、機体を構成する金属とプラスチックが原子構造を変えられ、液体状に変化した。柔《やわ》らかくなった壁は、内側からの気圧に押されて風船のように膨《ふく》らんだかと思うと、次の瞬間、轟音《ごうおん》とともにはじけ飛び、直径二メートルほどの丸い穴が生じた。たちまち機内の空気がすごい勢いで吸い出される。 「わしを殺しても無駄《むだ》だぞ!」今や野獣《やじゅう》の姿となったマールターンダは、吹き荒れる突風《とっぷう》の中で絶叫した。「いくら殺してもよみがえる——人間どもがいるかぎり!」 「人間がいれば、ね」  そう言い残し、青年は機外にダイブした。  同時に、ジャンボ機のあちこちから爆発音《ばくはつおん》や悲鳴が聞こえた。青年の仲間が機内の各所にひそんでいて、いっせいに行動を起こしたのだ。機体にいくつも穴があき、破片とともに空気が流出した。誰も安全ベルトを締《し》める暇《ひま》はなかった。ジャンボ機は大きく傾《かたむ》き、二二〇人の絶叫とともに墜落《ついらく》を開始した。  コクピットでは機長が操縦桿《そうじゅうかん》にしがみつき、体勢を立て直そうとしていたが、無駄な努力だった。四つのエンジンが次々に爆発し、右の主翼《しゅよく》が根元から切断されると、機体はブーメランのように回転しはじめた。塩の柱と化したプジャは座席から放り出され、壁に叩《たた》きつけられて砕け散った。  マールターンダはすでに観念していた。いかにビースト・ヘッド——世界を裏で支配する秘密結社 <ザ・ビースト> の七人の最高幹部の一人といえども、この高さから地表に叩きつけられたら、ただでは済まない。青年が見抜いた通り、彼には飛行能力はないのだ。たとえ生き残ったとしても、おそらく地上には青年の仲間が待ち受けていてとどめを刺されるだろう。奴《やつ》らの計画は完璧《かんぺき》だ。  死ぬこと自体はたいして恐ろしくはない。これまで彼は何度も死に、生き返ってきたのだから。ただ、あいつの最後の言葉だけが気にかかる。  どういう意味だ、「人間がいれば」とは?  傷だらけになったジャンボジェットは、遠心力に耐《た》えかね、高度八〇〇〇メートルで完全に分解した。まだ生き残っていた二〇〇人以上の乗客は空中に放り出され、悲鳴をあげながら雨のように地上に降っていった。 [#改ページ]    1  <ブラックバード> と少女  ミッドタウン・ウエスト——  二〇〇〇年五月三一日・午後一一時五〇分(東部標準時)——  ハドソン河とイースト河にはさまれ、南北に細長く伸びたマンハッタン島の中心部、三四丁目と五九丁目にはさまれた区画の五番街から西をこう呼称する。西をハドソン河、北をセントラル・パークに接する一辺約二キロの四角形の上に、エンパイアステート・ビルやロックフェラー・センターに代表される超高層ビルが何百も立ち並び、高さを競い合っている。超巨大都市ニューヨークのまさに心臓部と言える一画だ。  タイムズ・スクエアには夜遅くまで車と人がひっきりなしに行き交っている。ブロードウェイには三六の大劇場が軒《のき》を連ね、隣《となり》の四二丁目にはその数十倍の数のポルノ・ショップがひしめく。どの街路にも常に何百という人があふれ、何百という人生が交錯《こうさ》する。仕事に疲れたビジネスマン、明日の大スターを夢見る俳優の卵、浮かれて写真を撮《と》りまくる日本人観光客、道ゆく人に「コカイン? スピード?」とささやきかける麻薬《まやく》密売人、奇行を競い合うストリート・パフォーマー、警官と親しげに声を交わす売春婦、とぼとぼと歩くショッピングバッグ・レディ……様々な人種、様々な夢と希望、様々な打算と欲望が渦巻《うずま》くこの街には、喜びや笑いも満ちあふれている反面、たくさんの恐怖や悲劇もひそんでおり、怪《あや》しい事件、陰惨《いんさん》な事件が毎日のように発生する。  そのミッドタウン・ウエストの西の端《はし》、ハドソン河に面した第八六|埠頭《ふとう》に、 <イントレピッド海洋・航空・宇宙博物館> が浮かんでいる。第二次世界大戦から三〇年近くも活躍《かつやく》し、一九七〇年に退役した米海軍のエセックス級空母CVS—11 <イントレピッド> (基準排水量二万七〇〇〇トン)をこの場所に停泊させ、内部を博物館に改造したものだ。  入口近くには湾岸《わんがん》戦争で捕獲されたイラク軍の戦車がでんと置かれている。艦内《かんない》に入ると、第一次世界大戦から現代までの米海軍の主要|艦載《かんさい》機がほとんど揃《そろ》っているし、複葉機、ミサイル、人工衛星、宇宙船などの展示も充実している。中でも呼び物は、飛行|甲板《かんぱん》上に並べられた米海軍の歴史上の名機たちである。ダグラスA—3 <スカイウォリアー> 、ダグラスF—3D <スカイナイト> 、チャンスボートF—8 <クルセイダー> 、グラマンF—11 <タイガー> 、マグダネルF—4 <ファントム> など、一線を退いた戦闘《せんとう》機が仲良く翼《つばさ》を並べているのだ。  博物館は七時間も前に閉館し、艦上のライトも落ちていた。今夜は月は出ていない。空は晴れてはいるが、地上の明かりに邪魔《じゃま》されて、ろくに星も見えない。フットボールのグラウンドが二面も取れるという広大な飛行甲板を照らしているのは、眠ることを知らないマンハッタンの高層ビル群の灯と、ハドソン河に映る対岸のニュージャージーの灯だけだ。老いた戦闘機たちは、昼間の観光客の喧噪《けんそう》から解放され、翼を垂れて穏やかな夢を見ているようだった。  艦首をマンハッタンに向けて桟橋《さんばし》に接岸している <イントレピッド> 。その艦尾のアングルド・デッキ付近、ハドソン河を一望できる一画に、とりわけ異彩を放つ機体が展示されている。ロッキードA—12 <ブラックバード> である。  一九六二年に初飛行した世界最速のジェット機だ。大気との摩擦《まさつ》熱を効率よく発散するため、チタニウム合金製のボディは全面をフラットブラックで塗装《とそう》され、まさに <ブラックバード> と呼ぶにふさわしい不吉な外観である。奇妙な断面を持つ平たい胴体《どうたい》は、巨大なデルタ翼と一体化し、エイを思わせる独特のフォルムを形成している。翼の左右に配置された二基のプラット&ホイットニーJ58ターボジェット・エンジンは、合計二〇トンの推力を絞《しぼ》り出す。最大速度はマッハ三・二。地球上のどんな戦闘機も追いつけない。  当初、単座機として試作されたA—12は、YF—12という型式名で長距離要撃戦闘機として用いる計画もあった。だが、あまりに高価すぎるため量産が困難であったことから、戦闘機としての採用は断念され、結局、複座に改造されて全長が一・五メートルほど長くなり、SR—71という型式名で戦略|偵察《ていさつ》機として運用されることになった。計三二機のSR—71は、一九六六年から八九年までの二三年間、ベトナム戦争や第四次中東戦争でおおいに活躍した。八九年にいったん退役した後、湾岸戦争や北朝鮮の核査察|拒否《きょひ》問題などのからみで必要性が高まり、九五年に現役復帰したものの、九七年に再び退役している。このA—12は、その名機SR—71の原型となった機体なのだ。  その <ブラックバード> の胴体の上、キャノピーのすぐ後ろに、半裸《はんら》の少女が後ろ向きに縛《しば》りつけられていた。  年の頃《ころ》は一二、三歳。普段はだぶだぶのフライトジャケットにジーンズというスタイルなのだが、捕虜《ほりょ》になった今はそれらを剥《は》ぎ取られ、タンクトップとショーツ、それにナイキのシューズと白いソックスだけというあられもない格好《かっこう》だ。両手首をそれぞれワイヤーで縛られ、その端を機体の下にある前輪の支持柱に結ばれているので、ロデオのように機体の上に腹這《はらば》いになって艦尾の方を向いた状態で、上半身を起こすことができない。身長一五三センチのほっそりした白い身体は、全長三一・七メートルの <ブラックバード> の黒い巨体の上では、絶望的なまでに小さく見える。  ここに連行される前にハドソン河に突き落とされたため、全身ずぶ濡《ぬ》れだった。磨《みが》き上げられた銅の色をした髪からは、まだ河の水がしたたっているし、濡れて肌に貼《は》りついたタンクトップの下には、ふくらみかけた胸が透けて見えていた。五月とはいえ、北緯四一度のニューヨーク、ハドソン河の上を渡る風は冷たい。少女の肌は蒼《あお》ざめ、愛らしい白い歯はがちがちと鳴っていた。ワイヤーの束縛《そくばく》から逃れようとさんざんもがいたので、細い手首には血が滲《にじ》んでいる。 「ひゃーほほほ! これはこれは愉快《ゆかい》なショーだよねえ!」  少女はきっと首をねじ曲げ、陽気な笑い声の主をにらみつけた。そいつは彼女のすぐ後ろ、 <ブラックバード> のキャノピーの上に爪先《つまさき》で立ち、器用に踊《おど》っていた。  ピエロである。  水玉模様のだぶだぶの服、尖《とが》った帽子《ぼうし》、白いメイクをして赤く丸い鼻を付けた顔は、サーカスやショーに出てくるピエロそのものだった。ただのピエロと違うのは、右手にウージー・サブマシンガン、左手に小型のチェーンソーを持っていることだ。  ホーミィ・ザ・クラウン——「ピエロが子供をさらいに来る」という都市伝説から生まれた妖怪《ようかい》である。その伝説は一九八〇年代、ニュージャージー州の子供たちを中心に爆発《ばくはつ》的に広まった。ピエロは「ホーミィ」と呼ばれ、緑、青、または黄色のバンに乗り、銃《じゅう》やナイフで武装していると言われた。さらわれた子供の末路は誰も知らないが、全身を少しずつ切り刻まれて殺されるか、チャイルド・ポルノに売られると信じられた。  子供たちの口から口へ、恐怖とともに噂《うわさ》が語り継がれるにつれ、そのイメージはどんどんふくらみ、凶悪化していった。ホーミィが所持する武器は、最初はただの拳銃《けんじゅう》だったのがサブマシンガンに、ナイフだったのが剣《つるぎ》やなたに、さらにはチェーンソーになった。何百万という子供がホーミィの存在を確信し、その襲来《しゅうらい》を恐れた。その恐怖と不安が極限に達した時——ついに本物のホーミィが現われたのだ。 「それにしても意外だよねえ! ボクちゃんたちをさんざん震《ふる》え上がらせてくれた <Xヒューマーズ> のガンチェリーが、こんなちっちゃいお嬢《じょう》ちゃんだったとはねえ!」  そう言うと、ホーミィはひょいとジャンプして少女の傍《そば》に降り立ち、しゃがみこんだ。有名人に向かってマイクを突き出すレポーターのように、少女の口にサブマシンガンの銃口を突きつける。 「どう、ガンチェリー? 世界最速のジェット機に乗った感想は?」 「……最高だね」  ガンチェリーと呼ばれた少女は、濡れた髪の下から憎悪《ぞうお》に満ちたエイプリルブルーの瞳《ひとみ》を覗《のぞ》かせ、不敵に微笑《ほほえ》んだ。 「てめえらをぶち殺す時に、どんなにすっとするかと思うと、今からわくわくするぜ」 「言ってくれるじゃねえか!」  そう怒鳴《どな》ったのは別の妖怪だった。 <ブラックバード> の尾部、内側に傾斜《けいしゃ》した二枚の垂直|尾翼《びよく》の間からのっそりと姿を現わし、ガンチェリーの正面から近づく。  凶悪な顔とおぞましい体形をした怪物だった。身長は二メートル半、全身が緑と黒の縞《しま》模様の体毛に覆《おお》われている。上半身は人間に近いが、下半身はカンガルーか恐竜のようで、二本もあるねじくれた脚《あし》で巨体を支えていた。背中にはコウモリのような巨大な翼があり、恐竜のような太い尻尾《しっぽ》が生えている。耳まで裂《さ》けた真っ赤な口からは、絶えずしゅうしゅうと熱い煙《けむり》を吐いていた。  これもニュージャージー出身の妖怪、ジャージーデビルである。一六五〇年頃に開拓《かいたく》者たちが山の中で目撃《もくげき》したのが最初で、二〇世紀初頭にも何人もの目撃者が現われ、話題になった。 「どんな減らず口を叩《たた》こうが、きさまに何もできねえのは分かってんだよ。こいつがなけりゃ——」  ジャージーデビルは鉤爪《かぎづめ》の生えた指にひっかけた銀色のキーホルダーをちゃらちゃら鳴らした。長さ四センチはどのリボルバー拳銃《けんじゅう》の形をしている。 「——きさまはただの小娘。何の力もない生身の人間だってことは、お見通しなんだからな」  そう言うと、ジャージーデビルは蹄《ひづめ》のついた細い脚《あし》で、ガンチェリーの肩《かた》を乱暴に踏《ふ》みつけた。少女の顔が苦痛に歪《ゆが》んだが、それでも悲鳴をあげようとはしない。 「言ってみな。そのかわいいお手々で、俺たちの仲間を何匹|殺《や》った? 一〇匹か? 二〇匹?」 「二四匹!」少女は苦痛に涙を流しながら、懸命《けんめい》に声を絞り出した。「ついでに約束しといてやる! 二五匹目はてめえだ、出来損ないのドラゴナイト!」 「おやまあ」ホーミィは、ちっちっちっと舌を鳴らし、指を振った。「そんな悪い子にはサンタさんがプレゼントくれないよ——もっとも、今年のクリスマスには、君はもうこの世にいないかもねえ……ひゃーほほほ!」 「てめえらこそ、今年のハロウィンにゃ、お菓子《かし》貰《もら》えねえぞ!」  どうにか口にしたものの、あまり凄味《すごみ》のない台詞《せりふ》である——まあ、この状況でしゃれた決め台詞を考えている余裕もないが。 「おい、いつまで生かしとく気だ?」機体の下から野次が飛んだ。「さっさと始末しちまえよ。それとも、俺が踏み潰《つぶ》そうか?」  そう言ったのは、黄色いオーバーオールを着た巨漢である。丸々と太っており、顎《あご》と首の区別がつかない。『鏡の国のアリス』に出てくるハンプティ・ダンプティというのは、こんな感じだろう。人間ではない証拠に、眼がライトのようにぎらぎら輝いていた。甲板上に座りこみ、大きな袋《ふくろ》いっぱいのポップコーンをぼりぼり頬張《ほおば》っている。 「まあまあ、あせりなさんな、キルドーザー」ホーミィはオーバーオールの巨漢をなだめた。「お楽しみはこれからなんだから。ボクちゃんの趣向《しゅこう》をゆっくり楽しんでよ」 「もったいぶってんじゃねえよ。てめえはアンドリュー・ウェーバーじゃねえだろ。さっさと殺《や》っちまえ——見ろ、みなさんイライラしてらっしゃるぜ」  そいつの他にも、 <イントレピッド> の上には十数体の妖怪《ようかい》がたむろしており、 <ブラックバード> の周囲を取り囲んで、ホーミィとジャージーデビルと少女が繰り広げる危険な寸劇を見物していた。ガンチェリーはなるべく河の方を向いて、そいつらの姿を見ないようにしていたが、それでも視界の隅《すみ》にちらちら入ってくる。人種の坩堝《るつぼ》であるニューヨークにふさわしく、妖怪たちは出身も姿形も種々雑多だ。  ぴょんぴょん飛び跳《は》ねている身長一メートルほどの人型の生き物は、ホプキンスビル・モンスター——一九五五年、ケンタッキー州ホプキンスビルの農場にUFOに乗って降りてきて、サットン一家を脅《おぴや》かしたことで有名になった怪物だ。頭は球形で毛は無く、その側面には丸くて黄色い眼と象のような大きな耳がある。口が耳から耳まで裂《さ》けているので、横から見るとパックマンのようだ。手足はほっそりしていて、皮膚《ひふ》はアルミのような光沢がある。  その横で、巨大な灰色の翼《つばさ》を畳《たた》んでうずくまっているのは、一九六〇年代にウエスト・バージニア州のポイント・プレザント地区を騒がせたモスマン(蛾《が》人間)である。コウモリのような翼と二本の脚《あし》があるが、頭も腕も無く、二個の赤く燃える眼が胸についている。  蛙《かえる》のような顔をして鱗《うろこ》に覆《おお》われた醜《みにく》い怪人は、マサチューセッツ州の沖合の海底に棲《す》む魚人族、ディープ・ワン(深きもの)だ。本来は怪奇小説家H・P・ラブクラフトが小説の中で創作した怪物なのだが、ラブクラフトの作品を真実と信じる熱狂的ファンの妄想《もうそう》が集まり、実体化してしまったのだ。  その他にも、人間そっくりなもの、野獣《やじゅう》のようなもの、機械のようなもの、幽霊《ゆうれい》のように透き通っているもの、小さなものや大きなものがいた。この <イントレピッド> は、ニューヨークの闇《やみ》に潜《ひそ》む彼ら邪悪なものたち——秘密組織 <ザ・ビースト> の末端《まったん》の不良妖怪たちの集会場なのだ。  気丈に振る舞ってはいるものの、背中に妖怪たちの邪悪な視線を感じ、ガンチェリーは内心、恐怖のあまり気が狂いそうだった。生身の少女が一人、これだけの妖怪に囲まれ、正常でいられるわけがない。咽喉《のど》までこみあげている悲鳴を抑えるのに必死だ。だが、最後の瞬間《しゅんかん》まで決して悲鳴はあげないし、弱音は吐かないし、命乞《いのちご》いもしないと心に決めていた。それは <Xヒューマーズ> に加わる時、自分自身に課した誓《ちか》いなのだ。  どのみち悲鳴をあげても無駄《むだ》であることを彼女は知っていた。ホーミィは自分の周囲に結界を張り、犠牲者《ぎせいしゃ》の悲鳴が誰《だれ》にも聞こえないようにすることができる。おそらく、この空母はそっくり結界に包まれているはずだし、艦内《かんない》の警備員も眠らされていることだろう。これからどんな惨劇《さんげき》が繰り広げられようが、人間たちが気づくことはない。  頼みの綱《つな》は仲間たち—— <Xヒューマーズ> だけだ。 「まあ、もうちょっと我慢《がまん》してよ。この子にはまだ利用価値があるんだから」  そう言うとホーミィは、ガンチェリーに向き直った。今度はチェーンソーを突き出し、冷たい鋼鉄の刃を少女の細い首にぴたりと当てる。 「お仲間が助けに来ると思ってる? 残念だけど、そうはいかないんだよね。君のジーンズに縫《ぬ》いつけてあった発信機、別の場所に移させてもらったよ。そう、ちょうどあのへんだ」  ホーミィはサブマシンガンの銃口で、ハドソン河の対岸を指した。 「ニュージャージーのダウンタウンにある、廃《はい》ビルの地下。君のお仲間は当然、君がそこに捕まってると思って助けにやって来る。そこで歓迎の仕掛《しか》けをしておいた」 「罠《わな》なんかにかからないぜ。シャドーキックもパワーフェアリーもいるし、ミスターWはメカの専門家だから……」 「罠《わな》がビルの中にあればね。でも、ボクちゃんはそんなマヌケじゃないんだなあ。連中の裏をかく、とーってもナイスな趣向を思いついちゃったんだ——ほら」  ホーミィはチェーンソーを押して少女の首を強引にねじ曲げ、右を向かせた。 「あの潜水艦《せんすいかん》が見えるかなー?」  桟橋《さんばし》をはさんで反対側には旧式の通常型潜水艦 <グローラー> が停泊している。これも展示物のひとつで、昼間は中を見学することができる。その後部甲板から突《つ》き出たカタパルトの上には、ジェット機のような形をした艦対地ミサイル <レギュラス㈼> が載《の》っていた。  ミサイルは艦尾方向、つまりニュージャージーの方を向いている。 「まさか……?」 「そう、あのミサイル、弾頭を本物と入れ替えて、燃料も詰めてあるんだ。いつでも発射できる。もちろん照準はばっちりビルに合わせてあるよ。 <Xヒューマーズ> がビルの中に入ったら、張りこんでいる仲間が携帯《けいたい》電話で知らせてくれる。そしたらスイッチON! プシュウウウ! ボワーン!」  ホーミィは跳《と》び上がって、全身で爆発を表現した。 「ビルごと吹っ飛んじゃったら、さすがに連中でも生きてられないねえ」  ガンチェリーはようやく自分がここに縛《しば》られた理由を理解した。 「……オレにそれを見せるために?」 「そう。君に一部始終を見物させてあげたいのさ。仲間が派手《はで》な花火とともに全滅《ぜんめつ》するところをね。お楽しみいただいた <Xヒューマーズ> は今夜が最終回、次のシーズンの更新はなし——ひゃーはははははーっ!」 「それが終わったら殺すのか?」またもキルドーザーが野次を飛ばした。 「いいや、まだまだ。この子にはスターへの道が待ってるんだから」 「スター?」 「そう。裏の世界のね」  ホーミィはしゃがみこみ、おびえるガンチェリーの頬《ほお》に白塗《しろぬ》りのメイクをした顔(実際はそれが素顔なのだが)をすり寄せた。 「君にはチャイルド・ポルノ、それもとびきりアブノーマルなやつに出演してもらうよ。君が殺したボクちゃんの仲間と同じ数、二四本ね。ポクちゃんたちは恨《うら》みが晴らせるし、資金源にもなる。一石二鳥ってわけだ——いや、君も楽しいから一石三鳥かな? ひゃーははははは!」 「……てめえにも約束しといてやる」ガンチェリーは暗い声でつぶやいた。「ハロウィンまで待たねえ……」 「え? 何? 聞こえないね」 「てめえはハロウィンまでにぶっ殺すって言ってんだよ!」 「うひゃあ!?」  いきなり耳元で大声を張りあげられたので、ホーミィはびっくりして滑《すべ》り落ちそうになった。腕をぐるぐる振り回して、機体の縁《ふち》で踏みとどまる。珍妙なしぐさに、見物していた妖怪《ようかい》たちがげらげらと笑う。 「他の連中もよく聞け!」ガンチェリーはよく通る声で怒鳴《どな》った。「一度だけ改心のチャンスをやる! 二度はやらねえ! 神様の前で悔い改めるなら、命だけは助けてやってもいいぞ!」  その最後|通牒《つうちょう》に、妖怪たちはまたもげらげらと笑った。あのキルドーザーという巨漢も腹を抱えて笑っている。 「こいつぁ面白いジョークだ!」 「ホーミィ! お前の芸よりこの娘のギャグの方が面白いぜ!」  無理もない。いくら声だけ元気でも、ずぶ濡《ぬ》れの裸《はだか》同然で縛《しば》られた少女の言葉に、どれほどの迫力があるだろうか。  だが——  どこからともなくバイクのエンジン音が響いてくると、彼らの笑いは潮が退くように小さくなっていった。二〇〇メートル離れた一二番街から聞こえてくるのではない。すぐ近くから聞こえる。 「まさか……?」  悪い予感がして、ホーミィはあたりを見回した。  ブリッジの近くにある兵装昇降用エレベーターが作動していた。本来はミサイルや爆弾《ばくだん》を甲板《かんぱん》に運び上げるためのものなのだが、今は真っ赤な大型バイク——イタリア製のドゥカティが載《の》っていて、ゆっくりとせり上がって来る。エンジンを轟《とどろ》かせ、マフラーから激しく排気《はいき》ガスを噴出《ふんしゅつ》していて、いつでもダッシュできる体勢だ。  それにまたがっているのは、ヒスパニック系の顔をした屈強《くっきょう》な体格の大男だった。 <アメリカ自然史博物館> のロゴが入ったTシャツを着て、カウボーイハットをかぶっている。 「良くねえなあ!」ドゥカティの排気音にかき消されまいと、男は大声を張りあげた。「ガンチェリーはいつでも真剣《しんけん》だぜ! それを笑うのは失礼ってもんじゃないか?」  後ろを向いているガンチェリーにはその姿は見えなかったが、男の声とバイクの排気音には聞き覚えがあった。 「サヴェッジバイト! ロードレイザー!」 「へい、ガンチェリー、待たせたな! ショータイムだ!」  それが合図だった。ガンチェリーはすぐに顔を伏せ、眼をぎゅっと閉じた。 「お前か!」キルドーザーの眼が怒《いか》りを帯び、いっそう明るく輝《かがや》いた。「たった二人で乗りこんでくるとはいい度胸だな!」 「誰《だれ》が二人だと言った?」  サヴェッジバイトはにやりと笑うと、上を指差した。  星ひとつ見えないニューヨークの夜空——それがゆらりと揺《ゆ》れた。光が屈折し、陽炎《かげろう》のようにゆらめいたのだ。次の瞬間《しゅんかん》、鯨《くじら》を思わせる巨大な影が出現し、彼らの頭上を覆《おお》った。 「ゴーストエアシップ!?」 「ウィルソンの野郎だ!」  邪悪《じゃあく》な妖怪《ようかい》たちはうろたえ、右往左往した。突如《とつじょ》として出現したクラシックなデザインの飛行船は、全長二七〇メートルの <イントレピッド> に比べれば五分の一にも満たない大きさだが、甲板《かんばん》からほんの一〇メートルほどの高さに浮《う》かんでおり、見上げる妖怪たちにとっては充分《じゅうぶん》すぎるほどの威圧感《いあつかん》がある。透明化し、エンジン音も消して接近してきたので、頭上に来るまで誰も気づかなかったのだ。  だが、彼らが恐怖《きょうふ》を覚えたのは飛行船の大きさにではない。それが自分たちにとって死を意味する存在——ミスターW率いる <Xヒューマーズ> の母船であることを知っていたからだ。  飛行船のゴンドラから強烈《きょうれつ》なサーチライトが放たれ、 <ブラックバード> の周囲を昼間のように照らし出した。すさまじい悲鳴がいくつもあがる。闇《やみ》に棲《す》む妖怪の中には、光を極端に嫌《きら》うものが多い。たちまち何体かが耐《た》えられずに消滅《しょうめつ》した。他のものも、光をまともに見て一時的に失明したり、恐慌《きょうこう》状態に陥《おちい》っていた。無事だったのは、下を向いて眼を閉じていたガンチェリーだけだ。  まばゆいサーチライトの直射を浴びて、 <ブラックバード> の真下の甲板に、くっきりと黒い影が投影された。その影の中から、人型をした別の影が、ぬっと起き上がる。一六歳ぐらいの黒人少年で、黒いジャケットを着ており、夜だというのに濃《こ》いサングラスをかけ、ナイフを手にしている。混乱の中、誰も彼に気がつかない。 「突撃《とつげき》!」  サーチライトの攻撃が途切れるのと同時に、サヴェッジバイトの乗るドゥカティが突進した。うろたえている小妖怪たちを跳《は》ね飛ばし、一気に距離を詰める。  その進路にキルドーザーが立ちはだかった。 「ぶるるーん!」  奇妙《きみょう》なうなり声とともに、キルドーザーの頭から黒い排気《はいき》ガスが噴出《ふんしゅつ》した。黄色いオーバーオールの巨体がさらに膨張《ぼうちょう》し、角ばった機械の姿になる。眼がヘッドライトに、歯がラジエーターグリルに、甲板に踏《ふ》ん張った短い両脚《りょうあし》がキャタピラに、前に突《つ》き出した腕が土砂を押し運ぶブレードに変化する。  キルドーザーはその名の通り殺人ブルドーザー——工事現場で何度も人身事故を起こしたため、「呪《のろ》われている」と恐《おそ》れられるようになったブルドーザーなのだ。 「やるか!」  好敵手と遭遇《そうぐう》し、サヴェッジバイトはにんまり笑った。ドゥカティから後ろ向きに飛び降り、ごろごろと転がる。無人になったバイクは自分でハンドルを切り、正面から突進してくるキルドーザIを寸前でかわして、その横をすり抜けた。  サヴェッジバイトも巨大化した。全身がぼやけたかと思うと、三倍もの高さに伸び上がり、さらに前後にも膨張《ぽうちょう》する。再び実体になった時、その姿は人間とは似ても似つかぬものに変貌《へんぼう》していた——体長一五メートルもあるティラノサウルス・レックスの骨格標本に。  がーん!  無人のブルドーザーと骨だけのティラノサウルスは、派手な音を立てて激突《げきとつ》した。両者のパワーはほとんど互角だ。 「こっちには人質がいるんだよ!」  ホーミィが眼を押さえながら悲痛な叫《さけ》びをあげた。本気であることを示そうと、チェーンソーを作動させて高々と振《ふ》り上げる。  その目の前に、もう一人の白人少女が忽然《こつぜん》と出現した。ホーミィの目がくらんでいる間に、一〇メートルの高さの飛行船のゴンドラから飛び降りてきたのだ。外見は一八歳ぐらい。腰《こし》まで垂れた長い金髪《きんぱつ》で、妖精《ようせい》のような顔立ちをしており、しなやかな裸身《らしん》にはビキニの水着しか身につけていない。 「ガンチェリー、いじめる。許さない」  少女はたどたどしい英語でそう言うと、か細い腕《うで》をひと振りした。 「うぎゃっ!?」  ホーミィの顎《あご》にパンチが炸裂《さくれつ》すると、少女の体重の倍はありそうな殺人ピエロは、バスケットボールのように軽々とはじき飛ばされた。きれいな放物線を描《えが》いて飛翔《ひしょう》し、甲板《かんぱん》に叩《たた》きつけられる。  次の瞬間《しゅんかん》、今度は少女が悲鳴をあげて吹き飛ばされていた。ジャージーデビルの吐《は》いた火炎が背中を直撃《ちょくげき》したのだ。 「パワーフェアリー!」  ガンチェリーが叫んだ。ジャージーデビルは今度は身動きできないガンチェリーに狙《ねら》いを定める。  突然《とつぜん》、その右手から血が噴《ふ》き出した。日本刀が手首を貫《つらぬ》いている。驚いて振り向いたジャージーデビルが目にしたものは、いつの間にか背後に立っていた黒装束のニンジャであった。 「シャドーキック、見参」 「何!?」 「これは返してもらうでござる」  ニンジャ——シャドーキックは低い声でそう言うと、ジャージーデビルの右手から銀色のキーホルダーをもぎ取った。デビルは奇声を発し、とっさに太い尻尾《しっぽ》を振《ふ》り回したが、シャドーキックはひょいとバク転して攻撃《こうげき》をかわした。  その時、 <ブラックバード> の下にひそんでいた少年が、さっとナイフを振った。刃先から銀色のアーチ状の光がほとばしり、ガンチェリーを縛《しば》っているワイヤーを、それが結んである着陸脚ごと切断する。  着陸脚が折れ、 <ブラックバード> の機首ががくんと落下した。たまたま機首の真下にいたホプキンスビル・モンスターが、ピトー管でぐしゃりと頭を潰《つぶ》される。  シャドーキックは踏みとどまったものの、ジャージーデビルは安定を失い、翼《つばさ》の前縁から派手に転げ落ちた。ガンチェリーも切れたワイヤーに引きずられ、なだらかな機体から滑《すべ》り落ちる。  甲板に叩《たた》きつけられる——と思ったが、少年が寸前で抱き止めてくれた。少年はガンチェリーを乱暴に甲板に下ろすと、またもナイフを振るった。銀色の光が一閃《いっせん》すると、肌に傷ひとつつけることなく、手首にからみついていたワイヤーがあっさり切断される。さらに少年は自分のジャケットを脱ぎ、半裸《はんら》の少女の肩《かた》に素早く着せた。 「サンキュー、エッジ!」 「感謝するんなら、一回やらせろ」 「それとこれとは別——危ない!」  ガンチェリーが身を伏《ふ》せた瞬間、ジャージーデビルの吐《は》いた火炎が頭上を通過し、エッジの頭部を直撃した。黒人少年は何メートルもはじき飛ばされる。 「ミューティレーター!」ジャージーデビルは吠《ほ》えた。「この裏切り者が!」 「……その名前で呼ぶな」エッジは苦痛に耐《た》えながら上半身を起こし、言い返した。「俺はエッジだ……」 「墓に刻む名前なんかどっちでもいい!」  ジャージーデビルは再び口を開け、灼熱《しゃくねつ》の火炎《かえん》を放射する体勢に入った。口の奥《おく》でちろちろと炎《ほのお》が燃えているのが見える。ガンチェリーは恐怖《きょうふ》に襲《おそ》われた。さしものエッジもダメージが大きく、まだ起き上がれない。二撃目をくらったら命はないかもしれない。 「ガンチェリー、これを!」  シャドーキックが銃《じゅう》の形のキーホルダーを投げた。それは空中でくるくる回転しながら大きくなり、グリップに鎖《くさり》のついた本物の銃になった。ガンチェリーはとっさに立ち上がり、手を伸ばしてそれを受け取った。  コルト・ピースメーカー——西部のガンマンが愛用した伝説の名銃は、少女の手には不似合いなほど大きく、とても扱《あつか》えそうにないように見える。だが、グリップを握《にぎ》ったとたん、少女の体内に力が満ちあふれた。すかさず銃口を敵に向け、撃鉄《げきてつ》を起こす。  ごおおおおおーつ!  轟音《ごうおん》とともに火炎《かえん》が放射された。ガンチェリーはエッジの前に立っているので、火炎はまっすぐ彼女の顔面を直撃《ちょくげき》するコースだ。妖怪《ようかい》なら耐《た》えられても、生身の人間なら一撃で即死《そくし》だろう。  命中まであと一秒もない。 (お願い、シルバーバレル!)  ガンチェリーは心の中で銃《じゅう》に向かって呼びかけながらトリガーを引いた。  銃声が轟《とどろ》く。  銃口から超音速で飛び出した弾丸は、突進《とっしん》してくる炎の渦《うず》を貫き、強烈《きょうれつ》な衝撃波《しょうげきは》で消し飛ばした。そのままの勢いで直進し、ジャージーデビルの口に飛びこんで首を貫《つらぬ》く。デビルは悲鳴をあげ、口から血を吐《は》いてのたうち回った。  ガンチェリーは容赦《ようしゃ》なく二発目を発射した。妖力で強化された筋肉が、発射の衝撃を受け止めてくれる。  妖銃シルバーバレルから発射される弾丸は、四五口径でも対戦車ライフル並みの破壊力がある。しかもその狙《ねら》いは正確無比だ。ジャージーデビルは心臓を吹き飛ばされ、今度こそ息絶えた。 「……約束通り」ふうっと大きな息を吐き、ガンチェリーはつぶやいた。「てめえが二五匹目だ」 (後ろだ!)  老人の声が心に響く。ガンチェリーはとっさに横に転がった。彼女が〇・五秒前まで立っていた場所を、九ミリ・パラベラム弾が雨のように叩《たた》く。 「きええええーっ!」  錯乱《さくらん》したホーミィがサブマシンガンを乱射していた。今や超人的な体力と敏捷力《びんしょうりょく》を身につけたガンチェリーは、新体操選手のようなアクロバット動作でそれをかわし、 <ブラックバード> の機首の背後に転がりこんだ。チタン合金の機体に九ミリ弾が命中し、かんかんと音を立てる。  小妖怪を蹴散《けち》らしながら、無人のドゥカティが走ってきた。急ブレーキをかけて甲板《かんぱん》上をスライディングしながら変身する。ホーミィの前にすっくと立ちはだかったのは、真っ赤なライディングスーツに身を包んだ肉感的な美女だ。炎のように赤い髪《かみ》をしている。 「このお!」  ホーミィはサブマシンガンを美女に向けたが、弾切れだった。興奮して左手のチェーンソーを振り上げる。  赤髪の美女——ロードレイザーは冷静に対処した。右腕だけを車輪に変形させたのだ。タイヤからは鋭《するど》い刃が何十本も生え、高速で回転しはじめた。振り下ろされたホーミィのチェーンソーを、その丸鋸《まるのこ》で受け止める。  ぎゅいいいいーん! 耳をつんざく不快な金属音が響《ひび》き、文字通り火花が散った。ホーミィは全力で押しているが、ロードレイザーは平然としている。 「死ね死ね死ねーっ!」殺人ピエロは狂乱《きょうらん》してわめき散らした。「ボクちゃんは大人は大っ嫌《きら》いなんだよおおーっ!」 「そうか」ロードレイザーは抑揚《よくよう》のない声で答えた。「私もお前が嫌いだ」  彼女は右手の丸鋸《まるのこ》で身をかばいながら、左|腕《うで》を突《つ》き出した。その手が長く伸びて銀色の排気管に変形し、大きく開いたピエロの口に突っこまれる。 「ぐはっ!?」  ホーミィは目を白黒させてもがいたが、排気管は抜《ぬ》けない。ロードレイザーの左腕が低い排気音を発し、ピエロの腹に猛毒《もうどく》の排気ガスを送りこんだ。ホーミィはどうにか相手の腹を蹴《け》って離れることに成功したが、すでにたっぷり排気ガスを吸いこんでいた。 「げ……げほげほげほっ!」  ホーミィは咽喉《のど》をかきむしって激しく咳《せ》きこみながら、甲板《かんぱん》上をのたうち回った。  爆発《ばくはつ》や悲鳴がまだ相次いでいたが、戦闘《せんとう》はすでに終わりに近づいていた。生き残っていた小|妖怪《ようかい》たちは、パワーフェアリーのパンチやキックを食らって吹き飛ばされ、シャドーキックの投げる手裏剣《しゅりけん》や炸裂弾《さくれつだん》で次々にとどめを刺《さ》された。無謀《むぼう》にもガンチェリーに襲《おそ》いかかろうとしたディープ・ワンは、シルバーバレルの弾丸をくらって一撃《いちげき》で吹き飛んだ。はばたいて逃げようとしたモスマンは、背後からエッジの攻撃を受け、翼《つばさ》を切られてハドソン河に墜落《ついらく》した。  まだ決着がついていないのは、サヴェッジバイトとキルドーザーの戦いだけだ。キルドーザーは鋭い刃のついたブレードを上下させ、何とか相手の脚《あし》を傷つけようとする。サヴェッジバイトは巧《たく》みにそれをかわし、敵の側面に回りこんだ。首を伸《の》ばし、古生物学者が「死を呼ぶバナナ」と呼ぶ長く太い歯で、無人の運転室の天井に噛《か》みつく。普通のブルドーザーなら缶切《かんきり》で開けたようにばりばりと引き裂《さ》くことができただろうが、妖怪化したキルドーザーの装甲《そうこう》は堅く、さしものサヴェッジバイトもてこずった。一方、キルドーザーも側面にいる相手には攻撃《こうげき》する手段がなく、何とか振《ふ》りほどこうと、狂《くる》ったように信地|旋回《せんかい》を繰り返すばかりだ。 「手伝う!」  小妖怪をあらかた片付けたパワーフェアリーが駆《か》け寄ってきて、暴走するキルドーザーのブレードにしがみついた。小柄な身体ながら、常人の五倍もの力がある。サヴェッジバイトと力を合わせると、キルドーザーのパワーを上回った。  キルドーザーの旋回《せんかい》が止まった。キャタピラが激しく空転し、甲板が摩擦《まさつ》熱で焦《こ》げる。 「な、何しやがる!?」  キルドーザーはうろたえたが、どうにもならない。うなりを上げる黄色い巨体は、ティラノサウルスの化石と金髪《きんぱつ》の少女に押《お》され、ずるずると滑《すべ》ってゆく——飛行甲板の端《はし》に向かって。 「そらよ!」  サヴェッジバイトが最後のひと押しをくれると、キルドーザーはアングルドデッキから滑り落ちた。 「覚えてろよおおおーっ!」  そう叫《さけ》びながら、キルドーザーは三〇メートル下の水面に落下し、大きな水柱を上げた。あの重さでは簡単には上がってこれまい。 「しばらく河底で頭を冷やしな」  サヴェッジバイトは小さな前足をひらひらさせて、宿敵の退場を見送った。  今や悪の側の妖怪《ようかい》で動いているのはホーミィだけだった。だが、すでに戦える状態ではない。傷ついた身体をひきずって必死に逃げようとするが、またもバイクに変身したロードレイザーが前に回りこみ、退路を絶った。 「フリーズ!」  駆《か》け寄ってきたガンチェリーが妖銃《ようじゅう》を突《つ》きつけると、さしものホーミィも抵抗をあきらめ、おとなしくなった。  ロードレイザーは車体をウイリーさせ、さっと美女の姿に戻《もど》った。戦闘《せんとう》を終えた他のメンバーもぞろぞろと集まってくる。エッジとパワーフェアリーはひどい火傷《やけど》を負っているし、他の者も多かれ少なかれ負傷していたが、あれだけの派手《はで》な戦いで犠牲者《ぎせいしゃ》が出なかったのだから、よしとすべきだろう。  サヴェッジバイトは足音を響《ひび》かせながらガンチェリーの横にやって来ると、化石の巨体を縮め、人間の姿になった。ガンチェリーは殺人ピエロに油断なく銃を突《じゅうつ》きつけながら、大男の方をちらっと見る。 「ねえ、これから変身する時に『テラライズ』って言ってみたら?」 「何だそりゃ?」 「さあ、話してもらおう」ロードレイザーはホーミィの前に立ち、相変わらず抑揚《よくよう》のない棒読みのような口調で言った。「子供をさらっている目的は何だ?」 「こ、子供?」 「データによれば、このニューヨーク州とその周辺だけで、過去一年間に、一五歳以下の男の子二〇〇人以上が消えている。しかも、きわめて不可解な状況《じょうきょう》で……」 「し、知らないよお!」 「とぼけんな!」  ロードレイザーの生ぬるい訊問《じんもん》のやり方に業を煮《に》やし、サヴェッジバイトが割って入った。 「ネタは上がってんだよ! お前ら <ザ・ビースト> じゃなかったら、誰《だれ》の仕業《しわざ》だってんだ?」 「し、知らないってば!」ホーミィはぶるぶると首を振《ふ》った。「いや、もちろん、ボクちゃんも一人か二人はさらったけど……」 「一人か二人……?」  ガンチェリーが一歩踏み出し、ピエロの額に銃口をぴたりとくっつけた。ホーミィの表情がひきつる。 「あ、いや、三人か四人かな……五人か六人だったかも……ははは、ここんとこ物忘れがひどくてね」 「今すぐ頭、吹っ飛ばしてやろうか? 物忘れで悩《なや》むこともなくなるぞ」 「ははは……面白いジョークだねえ」 「ジョークじゃねえぞ。てめえらに河に落とされたおかげで風邪《かぜ》ひいたみたいなんだ。さっきからくしゃみが出そうでたまんねえ。クシュンとやった拍子《ひょうし》にトリガー引いちまうかも……」 「ほんとだってば! いくらボクちゃんたちでも、一年に二〇〇人なんて……そんな需要《じゅよう》なんてどこにもないし」 「オレをチャイルド・ポルノに出演させるとか言ってたよな?」 「いや、あれはちょっとしたブラック・ジョークで……ははは」 「新しいマーケットを開拓《かいたく》したんじゃねえのか?」とエッジ。「それで急遽《きゅうきょ》、子供が大量に必要になったとか……」 「知らないってば! 信じておくれよ! このつぶらな瞳《ひとみ》が嘘《うそ》を言ってるように見える?」 「……てめえのくだらねえジョークは聞き飽《あ》きたぜ」  ガンチェリーの声は興奮のあまりかすかに震《ふる》えていた。今にもトリガーを引きそうだ。他の者もそれを止める様子はない。ホーミィが重ねてきたおぞましい罪を考えれば、同情の余地はないからだ。  その時。 「そいつの言ってることは本当だ」  はっとして一同は振《ふ》り返った。いつの間にか幽霊《ゆうれい》飛行船は甲板《かんぱん》上に着艦《ちゃっかん》しており、ゴンドラの扉《とびら》が開いて、科学者のような白衣を着て眼鏡《めがね》をかけた中年男性が降りてきていた。 「ミスターW……」 「いや、これはまたひどく荒らしたもんだな」  甲板についた無残な傷跡、散乱した妖怪《ようかい》の死体、前|脚《あし》を折られた <ブラックバード> などを見渡し、ミスターWは軽く眉《まゆ》をひそめた。 「後始末が大変だぞ」 「そんなことより、どういうことなのさ? こいつらの仕業《しわざ》じゃないって?」 「ああ。大量|誘拐《ゆうかい》事件の犯人がこの連中だというのは誤情報だ。ついさっき、それが判明した」 「ほんとかよ?」 「私が間違っていたことがあるかね? 新発明のエーテル発信機だってうまくいっただろう? 連中は君のズボンに縫《ぬ》いつけておいたダミーの発信機の方に見事にひっかかった……」 「ああ、確かにね」ガンチェリーはちょっと頬《ほお》を染《そ》め、小声でつぶやいた。「でもやっぱ、タンポン型ってのは悪|趣味《しゅみ》だよな……」 「しかし、 <ザ・ビースト> の仕業じゃないとしたら、いったい誰《だれ》なんだ?」サヴェッジバイトが当然の疑問を口にする。「二〇〇人もの子供を誰にも気づかれず誘拐《ゆうかい》するなんて、かなりでかい組織でなけりゃ……」 「二〇〇人じゃない」 「はあ?」 「我々は統計の偏差《へんさ》が生じているのはニューヨーク州周辺だけだと思っていた。実際にはアメリカ各地、中南米諸国、アジア、中東、アフリカ……世界中で起きていたんだ。あくまで推定だが、消えた少年の数はすでに一万人を超《こ》えている」 「一万……?」  サヴェッジバイトはぽかんと口を開けた。他の者もショックを隠《かく》しきれない。それほど大規模な犯罪を、人間たちに気づかれることなく実行できる組織とは、いったい何なのか——そして、少年ばかりを誘拐する理由は? 「もしや」それまで沈黙《ちんもく》していたシャドーキックが口を開いた。「フェザーが最近、姿を見せないのも、その件と関係あるでござるか?」 「そうだ。ついさっき、トーキョーに到着《とうちゃく》したとEメールが届いた」 「トーキョー……」  シャドーキックは複雑な心境でつぶやいた。彼は外見は日本人だが、純然たるアメリカ生まれの妖怪《ようかい》だ。一度も日本に行ったことはなく、日本語も「カラオケ」「スシ」といった単語しか知らない。 「何かを嗅《か》ぎつけて、一人で世界中を探って回っていたらしい。ヨーロッパである重大な情報を入手したんで、それを確認するためにトーキョーに向かったんだそうだ。彼からの情報のおかげで、私も真相に気がついた……」 「まったく! フェザーの奴《やつ》、個人プレーが好きだよなあ」  自分のことを棚《たな》に上げて、エッジは愚痴《ぐち》った。彼はいつも独断で行動してチームの結束を乱している張本人なのだ。 「ちょっと待ってよ!」ガンチェリーが食ってかかった。「じゃあ <ザ・ビースト> はどうすんのさ? この機会に組織の糸をたぐって、徹底的にぶっ潰《つぶ》すんじゃなかったの?」 「その件は後回しだ」 「後回しって……」 「フェザーの仮説が正しいなら、今度の敵は <ザ・ビースト> の比じゃない。はるかに厄介《やっかい》で、何倍も恐ろしい連中だ」 「まさか……」 「本当だ。負ければ世界は滅《ほろ》びる」  ガンチェリーは息を呑んだ。何度も戦ってきて、 <ザ・ビースト> の恐ろしさは身に染《し》みている。 『ヨハネの黙示録《もくしろく》』に預言された七つの頭を持つ獣《けもの》——彼らは全世界規模の巨大なネットワークを形成し、多くの悪の妖怪を配下に従えている。その構成員は一説には数万ともささやかれる。何百という企業やカルト団体を支配する一方、麻薬《まやく》密売や武器密輸などの非合法活動で莫大《ばくだい》な利益を得ており、大国の政治の中枢にまで食いこんでいる。歴史の教科書に載っている重大事件のいくつかは、 <ザ・ビースト> が関与したものだとも言われている。  それより強大な敵など想像もつかない。 「……勝てるの?」 「分からない。我々《われわれ》だけでは無理なのは確かだ。世界中のネットワークと連絡を取り合い、共同戦線を張る必要がある。フェザーも確証を得られしだい、トーキョ1にある <うさぎの穴> とコンタクトすると言っている」 「クロスオーバーってこと?」 「そうだ。無論、フェザーの仮説が証明されればの話だが、私としては可能性は高いと思う。そうなれば、 <ザ・ビースト> とも一時休戦するしかなかろう。余計な戦いで力を消耗《しょうもう》するわけにはいかない」 「あーっ、ということは!」ホーミイが急に元気になった。「ボクちゃんも帰っていいってことだね!」  じとり。ガンチェリーは冷酷《れいこく》な視線で殺人ピエロを見下ろした。 「……誰《だれ》がそんなこと言った?」 「だって今、休戦って……」 「それとこれとは別だ。てめえを生かして返すなんて約束した覚えはねえ」 「そんな……」 「てめえに約束したのは、ハロウィン前にぶっ殺すってことだけだ……」  少女の低い声に秘められた冷たい殺意に、ホーミィは震《ふる》え上がった。 「ごめんなさい、ごめんなさい! これからいい子になります! 悔い改めますから許して! お願い、心優しいお嬢《じょう》ちゃん!」  ホーミィはわざとらしくぼろぼろ涙を流して嘆願《たんがん》した。だが、ガンチェリーはそんな演技に騙《だま》されはしない。 「……改心のチャンスは二度はやらねえって言ったはずだ」  静かにそう告げると、少女はトリガーを引いた。  銃声《じゅうせい》が轟《とどろ》き、ピエロのお喋《しゃべ》りは途絶えた。 「やっと静かになった……」  硝煙《しょうえん》のたなびく銃をゆっくりと下ろすと、ガンチェリーは少しふらついた。疲れたからではない。精神的なダメージが大きかったからだ。戦いが終わるといつもこうなるのだ。 (だいじょうぶか、ガンチェリー?)  シルバーバレルが優しく語りかけてきた。 (うん……平気だ)  そう答えたものの、ガンチェリーの心は揺《ゆ》れていた。  ホーミィもジャージーデビルも、これまで大勢の罪のない人の命を奪《うば》ってきた。人間の法律に当てはめれば死刑は当然。逃がせばまた犠牲者《ぎせいしゃ》が増える。だから殺すのは正しい——理屈《りくつ》ではそうでも、感情ではすっきり割り切れるものではない。  どんな邪悪《じゃあく》な妖怪《ようかい》であれ、心を持った相手を殺すことに罪悪感がないわけがない。妖怪を一匹倒すごとに、思春期の少女の多感な心は深く傷つく。辛《つら》さを忘れようと、酒かドラッグに逃避したいという誘惑《ゆうわく》にかられたことも、一度や二度ではない。  だが、彼女は決して誘惑に負けなかったし、シルバーバレルを手放そうともしなかった。どんなに苦しくても決して逃げないと誓《ちか》ったからだ。妖怪退治の仕事を投げ出したら、苦しめられている多くの人を見殺しにすることになる。  シルバーバレルの方でも、彼女以外のガンマンは考えられなかった。正しい心を持たない者が手にすれば、銃はただの人殺しの道具に堕落《だらく》する。それは誇《ほこ》り高いシルバーバレルには耐《た》えられないことだった。殺すことに痛みを覚えない者、憎《にく》しみや怒《いか》りだけでトリガーを引く者は、伝説の名銃《めいじゅう》のガンマンにふさわしくない。  勇気、正義感、意志力……そして何より優しさを持つ者だけが、ガンマンになれる資格がある。悲しいことに、今の世の中には、この条件に当てはまる者は少ない。しかし、ガンチェリーにはその資格が揃《そろ》っていた。敵を殺すたびに苦しみ悩《なや》むことこそ、彼女が理想のガンマンである証《あかし》なのだ。  役目を終えたシルバーバレルは、また八分の一のサイズに縮んだ。これならただのキーホルダーのように見え、女の子が持ち歩いても怪《あや》しまれない。同時に、少女の肉体を強化していた妖力《ようりょく》のリンクも途切れ、どっと疲労が襲《おそ》ってくる。 「……さて、解散だ」ミスターWは少女の肩《かた》をぽんと叩《たた》いた。「今夜はゆっくり休みなさい。これから忙《いそが》しくなるだろうから」  幽霊《ゆうれい》飛行船はミスターWを乗せて飛び去った。パワーフェアリーは私服に着替え、地下鉄に乗るためにグランド・セントラル駅の方へ歩いていった。ロードレイザーはまたバイクに変身し、サヴェッジバイトを乗せて走り去った。シャドーキックはいつの間にか姿を消していた——みんなそれぞれの日常に戻《もど》ってゆくのだ。 「送ろうか、アリッサ?」  エッジが優しく声をかけ、さりげなく少女の肩を抱いた。ごく普通の少女アリッサ・メイベルは、エイプリルブルーの眼を閉じ、少年の広い胸に寄りかかった。 「ありがとう。そうしてくれる?」自分の格好を見下ろし、アリッサは恥《は》ずかしそうに微笑《ほほえ》んだ。「ズボンなしじゃ、ちょっと地下鉄にゃ乗れねえから」  こんな時、影から影へと移動できるエッジの能力は便利だ。 「遅くなっちまって、ママが心配してんじゃねえか?」 「だいじょうぶ。今日はアニー、仕事で泊まりだから……」 「おおっ」エッジは期待に目を輝《かがや》かせた。「ということは、あのロフトで朝まで二人きり……」 「バカ!」アリッサは肘鉄《ひじてつ》をくらわせた。「入口までに決まってんだろ!」 [#改ページ]    2 カウントダウン  東京都|渋谷《しぶや》区・JR渋谷駅前——  二〇〇〇年六月一日・午後五時五〇分百本時間)—— 「終わりの日は近いのです!」  太陽が西に傾《かたむ》き、勤め帰りのサラリーマンやOLが改札口から繰り出して、ハチ公前のスクランブル交差点の人口密度が急増する頃《ころ》、小さな脚立《きゃたつ》の上に立ち、メガホンでがなり立てている中年男がいた。上着もズボンも白一色で、こんな場所でなければマッサージ師に見えたかもしれない。彼の周囲には同じ格好をした若い男女が何人もいて、信号待ちをしている通行人に手当たりしだいにビラを押しつけていた。安っぽいビラには <ハルマゲドンは近い> <悔い改めよ> といった文字が踊《おど》っている。  彼らの熱心な訴《うった》えにもかかわらず、交差点を行き交う何千という群衆の中に、耳を傾ける者は一人もいない。まったく存在を無視するか、騒音に顔をしかめるか、友達同士でくすくす笑いながら通り過ぎるかだ。ほとんどの者はビラを受け取るのを拒否し、たまに受け取ってしまった者も、読まずにポケットに突《つ》っこむか捨ててしまう。中年男が懸命《けんめい》にメガホンでがなり立てる救済のメッセージも、彼らの耳には届くが、まったく理解されることなく頭を素通りしてゆく。それでも白い服の男女はくじける様子はなく、読まれることのないビラを配り続けている。そんな彼らの努力を嘲笑《あざわら》うように、駅前ビルの壁面の大型テレビの中では、ミニスカートの女の子たちが陽気に歌い踊っていた。 (何だかかわいそう)  ハチ公の像の前で人を待つ間、ぼんやりと彼らを眺《なが》めていた守崎《もりさき》摩耶《まや》は、ふとそう思った。彼らの信条には少しも共感しないが、一人でも多くの人を救いたいという熱意だけは立派と言うべきだろう。その熱意があまりにも見事に空回りしていることを哀《あわ》れに思ったのだ。  無視されるのも無理はない。世界の終わりを予言する者など、この渋谷では珍しくもないのだ。つい先日も、「日本列島は二〇〇〇年五月までに沈没《ちんぼつ》する」と予言していたカルト教団が週刊誌やワイドショーで話題になり、世間のもの笑いのタネになったばかりだ。その教団の教祖は、予言がはずれたことをあくまで認めようとせず、「すでに日本は沈没して、あなたたちはみんな死んでいるのですが、それに気がついていないのです」とうそぶいた。  今日、メガホンでがなり立てているのは、それとは別の教団であった。無論、彼らだってテレビを見ていないわけではあるまい。他の団体が終末予言をはずして恥《はじ》をかいたばかりであることを知っているだろうし、一年前、世間を騒がせたノストラダムスの予言が見事に空振《からぶ》りに終わったことも承知しているだろう。いや、この数百年間、世界中で数えきれないほどの宗教団体や予言者や占星術師が「世界の終わりの日」を予言してきたが、ことごとくはずれてきたことも知っているだろう。  それでも彼らの信念は揺《ゆ》らがない。自分たちの予言だけは違《ちが》う、必ず当たる、と信じているのだ。  なぜ?  その心理が摩耶には分からない。なぜそんなに強い確信を持って予言を信じられるのか。財産や社会的地位を投げうち、家族や友人を捨てることができるのか。世間の嘲笑《ちょうしょう》や罵倒《ばとう》を浴びて辛《つら》い思いもするだろうに、どうして「世界の終わり」などという勝ち目のなさそうなギャンブルに、人生のすべてを賭《か》けることができるのか……? 「おーい、摩耶ちゃん!」  陽気な声が摩耶の思考を断ち切った。中学生ぐらいの女の子が、人ごみの向こうでぴょんぴょん飛び跳《は》ね、手を振《ふ》っている。 「ああ……」  摩耶は微笑《ほほえ》み、手を振り返した。女の子は人待ちをしている男女の間をすり抜け、摩耶に近づいてきた。Tシャツと短パンというボーイッシュな格好で、サンダルを履《は》いている。家から駆《か》けてきたばかりのようだ。 「ごめんごめん。開店の手伝いがあってさ——待った?」 「ううん、そんなに」 「どうする? まだ六時前だけど——」女の子はちらっと腕《うで》時計に目をやった。「吉祥寺《きちじょうじ》に直行する?」 「でも、 <稀文堂《きぶんどう》> の閉店時間って八時なんでしょ?」 「うん。七時台は勤め帰りのサラリーマンとかがちょくちょく寄ることがあるから、閉店後の方が都合いいらしいんだよね」 「今から井《い》の頭線《がしらせん》に乗ったら、ずいぶん早く着くわね」 「どこかで食事して行けば、ちょうどいい時間だよ——ここらで何か詰めこんでから行く? それとも、向こうで食べられるとこ探す?」 「私はどっちでもいいけど……」 「リクエストは?」 「うーん……」  摩耶は曖昧《あいまい》な返事をした。主体性がないわけではないのだが、自己主張に欠けるのが彼女の欠点だ。  渋谷駅前にはテレビ局の取材もよく来る。もしこの時、テレビカメラが回っていたら、画面の隅《すみ》に奇妙な光景が映っていたかもしれない——摩耶が誰《だれ》もいない場所に向かって話しかけている光景が。  摩耶の話している相手——井神《いかみ》かなたは人間ではない。人間の目には見えるし、触《さわ》ることもできるし、重さもある。にもかかわらず、写真やテレビには映らない。この世の物理法則を超越《ちょうえつ》した存在であるため、科学技術によって存在を検知することが不可能なのだ。  かなたのような存在は、一般に「妖怪《ようかい》」と呼ばれる。  それを知っていても、摩耶はかなたを特別視したりはしない。つき合い出した最初の頃《ころ》は、いろいろ驚《おどろ》かされもしたし、ぎこちない関係の続いた時期もあった。だが、今ではかけがえのない親友だ。 「そうだ、センター街に新しいピザ屋ができてさ、サービス券持ってんだ。ピザでいい?」 「ええ」 「オッケー。じゃ、レッツゴー!」  いつも陽気なかなたは、摩耶をリードして歩き出した。二人は交差点を渡り、センター街に向かった。 「裁きの日はすぐそこに迫《せま》っているのです!」  二人の背後では、白衣の男がまだがなり立てていた。  神奈川県|厚木《あつぎ》市・国道四一二号線——  同日・午後六時四五分(日本時間)——  東名高速厚木インターの数キロ手前のガソリンスタンドに、一台のトラックが停車していた。貨物室の側面と後部には、カモシカのシルエットが描《えが》かれている。店員の作業を待つ間、運転手の蔵沢《くらさわ》久三《きゅうぞう》は車体に寄りかかり、夕焼けに美しく染まりつつある空を眺《なが》めながら、陽気に口笛を吹《ふ》いていた。  思えばこの五〇年、何もいいことのない人生だった。平凡なサラリーマンの家庭に生まれ、いつも二人の兄にいじめられて育った。大学時代はマルクス主義にかぶれ、ヘルメットをかぶって七〇年安保|闘争《とうそう》に参加したりもしたが、ゲバ棒を振り回しても歴史は変えられないことを思い知らされただけだった。過激派の爆弾《ぼくだん》作りに手を貸して警察に逮捕《たいほ》され、半年服役した。親からは勘当《かんどう》され、大学からも追い出された。出所後は思い直して就職しようとしたが、活動家のブラックリストに載《の》ったせいか、どこの会社も採用してくれなかった。どうにか就職できた製紙工場は石油ショックの余波で潰《つぶ》れ、職安通いをして、いくつもの職場を転々としたあげく、配送会社のトラック運転手に落ち着いた。よく通った飲み屋で、不器量でぐうたらで料理のまずい女と知り合い、何の間違いか結婚してしまった。苦しい家計をやりくりして、どうにか二人の子供を育て上げたはいいが、息子はバイクで人身事故を起こして多額の借金を背負い、親に泣きついてくるし、娘は軽薄《けいはく》そうな男と結婚してすぐに離婚してしまった……。  いや、まったくツイていない人生だった。  だが、それも三か月前までのことだ。三か月前から聞こえるようになった�声�が、彼の人生を一変させたのだ。  無論、最初は自分の頭を疑った。酒を飲みすぎたせいで幻聴《げんちょう》が聞こえるようになったのかと思い、うろたえた。しかし、四月四日に起きたインドの飛行機事故、五月三日のボリビアの大|地震《じしん》と、�声�の予言が立て続けに的中したことで、蔵沢の疑念は揺《ゆ》らぎ、崩《くず》れ去った。今では深い確信を持っている——この声は本物だ、本当に神のお告げなのだ、と。  自分だけに聞こえるその�声�のことを、彼は妻にさえも話さなかった。�声�がそう命じたからだ。話しても精神を疑われるだけだろう。蔵沢にしてみれば、異常者|扱《あつか》いされるのは不本意であった。医者に鑑定《かんてい》してもらうまでもなく、自分が正気であることは、自分がいちばんよく知っている。  それに、この素晴らしい体験を誰《だれ》かに信じてもらう必要などないのだ。神からのメッセージが確かに自分に届いている。自分はうだつの上がらないトラック運転手などではなく、神の代理人、悪を滅《ほろ》ぼし、この世を救うために選ばれた者なのだ——その事実だけで、彼は充分《じゅうぶん》に満足であり、幸福であった。  その�声�が彼に進むべき道を示した。�声�の言うことに間違いはない。�声�の指示を忠実に実行しさえすれば、自分は救世主となる。神とサタンの最終戦争を勝利に導き、死後も栄光とともに神の国に迎《むか》え入れられるのだ……。 「終わりましたよ」  店員が声をかけた。一八リットル入りの青いポリタンクを運んでくる。 「一八五〇円にです」 「ご苦労さん」  にこやかな顔で礼を言い、千円札を二枚差し出す。釣《つ》りを受け取りながら、蔵沢はこの数時間に何度目かの笑いの発作に襲《おそ》われ、噴《ふ》き出しそうになるのを懸命《けんめい》にこらえた。何という無意味な行為《こうい》であることか。今さら一五〇円ぐらい貰《もら》ったところで、俺の人生には何のプラスにもならないというのに……。  ポリタンクを助手席に載《の》せ、スタンドを出てしばらく走る。スタンドが見えなくなったところで、道路|脇《わき》にトラックを止めた。ポリタンクを持って車の後ろに回り、貨物室の扉《とびら》を半分開ける。満タンのポリタンクを荷台の奥《おく》の方に押しこみ、青い防水シートをかぶせて、代わりに空のポリタンクを一個、引きずり出す。  防水シートの下には、すでに満タンになったポリタンクが二八個、整然と並んでいた。午後いっぱいかかって、神奈川県とその周辺のスタンドを二八|軒《けん》回り、買い集めたものだ。仕事を放り出し、会社のトラックを私用に使っているのだから、今ごろ社長はかんかんだろうが、知ったことではない。  空のポリタンクを持って運転席に戻《もど》り、トラックを再スタートさせる。交差点に差しかかった時、女性ドライバーの乗ったセダンが強引に右折しようとして車線を変更し、進路をふさいだ。三か月前までの蔵沢なら、クラクションを鳴らし、怒鳴《どな》り散らしていただろう。だが、今の彼の心は、悟《さと》りを開いた聖人のように穏《おだ》やかだった。  蔵沢さんは人が変わった、と同僚《どうりょう》たちも噂《うわさ》し合っている。ぎすぎすしたところがなくなり、やけに明るくなったと。  当然のことだろう。借金、仕事のノルマ、上司の叱責《しっせき》、妻との口論、娘の生意気な言動、風呂場の水洩《みずも》れ……彼の胃を痛くしていた悩みのすべてが、今や無意味なものとなったのだから。地上のあらゆる雑事から解放され、彼の心は晴れ渡っていた。この混沌《こんとん》と腐敗《ふはい》に満ちた誤った世界は、まもなく終わるのだ。借金や人間関係のことで悩む必要がどこにあろう。 (地上を這《は》い回る哀《あわ》れな姐虫《うじむし》ども)行き交う車にちらっと目をやり、蔵沢はにこやかな笑みを浮《う》かべた。(くだらない日常の目的のために奔走《ほんそう》している飼《か》い犬ども。俺がどれほど偉大な人間か、お前たちには理解できないだろう。神から俺に課せられた使命がどれほど崇高《すうこう》か、想像もつかないだろう……)  トラックを少し走らせると、前方にある別のスタンドが目に入った。空のポリタンクがまだいくつかあるし、財布にも一万円札が二枚残っている。指示された時刻までまだ間があるのだし、この際、全部満タンにしておくべきだろう。  使命は確実に遂行《すいこう》しなくてはならない。そのためには、ガソリンは多い方がいい。  蔵沢はスタンドにトラックを止めると、空のポリタンクを持って運転席から降りた。近づいてきた店員に向かって、今日二九回目になる言葉を口にする。 「すぐそこで若いお姉ちゃんの車がガス欠起こしちまっててさ、ちょっと頼《たの》まれたんだ。これにガソリン入れてやってくんない?」  それまでの二八人と同様、その店員も何の疑いも抱かず、ポリタンクにガソリンを注入しはじめた。  東京都杉並区・京王《けいおう》井の頭線車内——  同日・午後七時三五分(日本時間)——  この時間帯、勤め帰りのサラリーマンやOLで、車内はひどく混み合う。摩耶とかなたは乗車口と反対側の扉《とびら》のガラスに押《お》しつけられ、苦しい思いをしていた。それでもお喋《しゃべ》りだけはやめない。 「霧香《きりか》んとこでバイトはじめたんだって?」 「ええ。蔦矢《つたや》さんが辞めちゃって、忙《いそが》しいからって」  狩野《かのう》霧香は雲外鏡——古い鍵の妖怪《ようかい》だ。人間としての外観は、黒いストレートな髪の美しい三〇代の女性である。原宿で <ミラーメイズ> という占《うらな》いの店を経営しており、若い女性にけっこう人気がある。ここ数年、加藤《かとう》蔦矢という大学生が助手を務めていたのだが、この春に就職してしまった。摩耶はその後釜《あとがま》になったのだ。 「そっかー。摩耶ちゃん、タロットとか好きだもんね。占い師に向いてるかも」 「だめ」摩耶は自嘲の笑みを浮かべた。「私、占《うらな》い師には絶対なれない。大事な素質が欠けてるもの」 「素質?」 「人の心を見抜く素質——霧香さんが言ってた。占い師は占いよりも、その人の悩みを見抜いて、的確なアドバイスをしてあげるのが大切なんだって。私、それができないの。他の人の心、ぜんぜん分からない」 「そんなことないと思うけどなあ」 「そうよ。かなたに会うまで、友達もいなかったし」 「でも、今は何人もいるじゃない」 「それはそうだけど……」  摩耶は口ごもった。今でこそ人と平気で話せるようになったが、かつてはほとんど対人|恐怖症《きょうふしょう》と呼ぶべき内気な性格で、一人の友達もいなかった。  確かに今では <うさぎの穴> のメンバーと親しくなったし、友人と呼べる人間も何人かいる。それでもなお、「人づきあいが下手」というのは、摩耶にとって大きなコンプレックスになっている。 「この電車にさ——」  ガラスの外を流れる夜景を見つめながら、かなたがふとつぶやいた。 「え?」 「来るたびに思い出すんだよね。摩耶ちゃんと初めて会った時のこと」 「ああ……」 「なんかずいぶん前のことみたいなんだよね」 「そうね……」  摩耶はひどく懐《なつ》かしく感じた。自分の部屋で起きる怪現象《かいげんしょう》に悩まされ、思い余って渋谷にある <うさぎの穴> に相談に行ったのも、確かこんな初夏の夜だった。彼女はその頃《ころ》、まだ高校生で、吉祥寺にある実家で暮らしていた。その現象を調べに行くため、かなたは摩耶といっしょに井の頭線に乗りこんだのだ。  その怪現象は、摩耶に憑依《ひょうい》していた夢魔《むま》のしわざだった。夢魔は妖怪《ようかい》の一種だが、完全な妖怪ではない。意志を持たない強大なエネルギーのかたまりで、人間の意識下の欲望を叶《かな》えるために出現するのだ。夢魔の淫《みだ》らな行動は、すべて彼女自身が望んだことであった。  それを知った時、摩耶は恐怖《きょうふ》し、錯乱《さくらん》した。自分の心の底にうごめく醜《みにく》い欲望を見せつけられるのは、思春期の少女にとって耐《た》えがたい体験だった。自殺を考えたこともある。危うく発狂しかけたこともある。かなたが精神的に支えてくれなければ、間違いなくそうなっていただろう。  憑依した夢魔を分離することはできないが、意志の力で暴走を抑《おさ》えることはできる。今ではこの奇怪《きかい》な境遇《きょうぐう》にもすっかり慣れ、かなり自由に夢魔《むま》をコントロールできるようになった。だから、かなたにはいくら感謝しても足りない。  あの夜以来、かなたはいつも彼女の傍《そば》にいる。悩《なや》んでいる時は相談に乗ってくれる。危険が迫《せま》ったら駆《か》けつけてきてくれる。今では生まれた時からの親友であるかのような錯覚《さっかく》すら覚える。ほんの数年のつき合いしかないとは信じられない。  遠い昔の出来事のような気がするのは、この数年間にあまりにも多くの体験をして、平凡《へいぼん》な女の子の何倍もの人生を生きたからだろう——と、摩耶は思う。  だが、着実に月日は流れている。  暗いガラスに映る自分たちの顔を眺《なが》め、摩耶は時の流れをしみじみと実感した。かなたはあの頃《ころ》と同じ、中学生の外見のままで、背も伸びていない。しかし、自分の顔はかなり大人びてきている。来年は二〇歳——もう「少女」ではいられない。 「……私たち、いつまでも友達でいられるのかな?」 「いられるよ」かなたはあっさりと答えた。「当然じゃない」 「でも、私はどんどんお婆《ばあ》ちゃんになっちゃうし……」 「いつの話だよ!?」かなたは失笑する。「ずいぶん未来じゃない。二〇五〇年頃? そんな話、鬼《おに》どころか、閻魔《えんま》様まで笑っちゃうよ」 「だって……」 「何だったら、合わせてあげようか、摩耶ちゃんの年に?」  外見では逆だが、実|年齢《ねんれい》はかなたの方がずっと上だ。しかし、人間の何十倍もの寿命《じゅみょう》を持つ化け狸《だぬき》の一族の中では、まだ子供も同然。だから自分の精神年齢に合わせた外見をしている。その気になれば年配の女性にも化けられる。 「……ううん、いい」少し悩んでから、摩耶は答えた。「やっぱり、その姿がかなたには似合ってると思うし」 「そう? 嬉《うれ》しいなあ」かなたは照れ笑いした。「外見はともかく、いつまでも心だけは若くありたいもんだよね——だったらさ、摩耶ちゃんに子供が生まれても、この姿で友達になってあげるよ」 「それこそ、いつの話よ!」  他愛ない会話で、二人は屈託《くったく》なく笑った。  ほんの数時間後に遭遇《そうぐう》する悲劇もまだ知らずに……。  東京都渋谷区|道玄坂《どうげんざか》一丁目——  同日・午後七時五〇分(日本時間)——  JR渋谷駅から歩いて二分。バーや飲食店が多いこの界隈《かいわい》は、昼間はあまり活気がない。排気《はいき》ガスまみれの都会の空気にさらされて薄汚《うすよご》れた雑居ビルが立ち並び、 <準備中> の札と閉じたシャッターが目につく。人通りもさほど多くない。  しかし、夜になると生まれ変わったように活気づく。通りには勤め帰りのサラリーマンや学生が行き交い、馬鹿《ばか》騒ぎのできる店を探している。パチンコ店やゲームセンターからは、賑《にぎ》やかな光と騒音があふれる。毒々しい極彩色の看板が光を放って、欲望のはけ口を求めてさまよう人々を誘《さそ》う。壁《かべ》に染《し》みついた汚《よご》れも、夜は目立たない。夜だけ美しく輝《かがや》くシンデレラのような街——それが道玄坂だ。  その一画に立つ古い小さな雑居ビルの五階に、バー <うさぎの穴> はある。  いや、「ある」という言葉は正確ではない。厳密に言えば、 <うさぎの穴> はそこに存在しないのだ。ビルは四階までしかなく、中のエレベーターにも <5> のボタンはない。もちろんビルの前に看板が出ているわけでもない。だから無関係な者がこの店に迷いこむことはありえないのだ。  しかし、店を真に必要とする者の目には、 <BAR うさぎの穴 5F> と書かれた真っ赤な看板が見える。エレベーターに乗れば <5> のボタンが現われる。それを押《お》せば、エレベーターは上昇《じょうしょう》する——存在しない五階に向かって。  そう、この店は現実の空間には存在しない。この世と薄い壁ひとつを隔《へだ》てて存在する不可視の異空間、いわゆる「隠《かく》れ里」なのである。そして、この <うさぎの穴> こそ、東京にたむろする妖怪《ようかい》たちのネットワークの主要な根拠地なのだ。 「よっ、こんばんは……っと?」  真っ赤な扉《とびら》を押して、いつものように陽気な調子で店内に入ってきた長身の青年は、いつもと違う店の雰囲気《ふんいき》にとまどい、立ち止まった。  ピアノの流れる店内にいるのは、馴染《なじ》みの顔ぶれである。夜だというのにサングラスをかけた中年男。ノートパソコンに向かっている小太りの青年。カウンターに寄りかかった長い黒髪《くろかみ》の美女。グラスを磨《みが》いている初老のマスター……普段なら「よお、流《りゅう》!」という声のひとつもかかりそうなところなのに、今夜はみんななぜか沈黙《ちんもく》しており、表情も険しい。 「何か……トラブルなのか?」  水波《みなみ》流は不吉な予感を覚えた。 「ニュース、見なかったの?」  黒髪の美女——狩野霧香が、咎《とが》めるように言う。 「ニュース?」 「昨日、ウガンダの北部でマグニチュード六の地震《じしん》があったのよ」 「ああ、テレビでやってたような……えっ、まさか?」 「そのまさかだよ」  眼鏡越《めがねご》しにパソコンの液晶《えきしょう》モニターを見つめながら、小太りの青年が言った。彼の名は高徳《たかとく》大樹《だいき》。コンピューターに詳《くわ》しいため、 <うさぎの穴> の情報収集係を担当している。流とは性格も体格も正反対だが、なぜかいいコンビだ。 「グルーの近郊《きんこう》にあった <キヴリ・ヤ・キブルー> というネットワークが壊滅《かいめつ》した。大規模な土砂|崩《くず》れが起きて、少なくとも六人が下敷《したじ》きになってるらしい。無事だったメンバーが助けに駆《か》けつけてるけど、手のつけられない状況のようだ」 「これで四回めか……」  楽天的な流も、さすがに事態の重大さを深刻に受け止めざるを得なかった。  妖怪《ようかい》ネットワークは日本だけにあるのではない。何千年もの昔から、妖怪は世界のいたるところにいた。その多くは人間の自然に対する畏敬《いけい》の念が生み出したもので、人里離れた山奥や森の中、海や川の底などで、人間と関わることなくひっそりと暮らしていた。だが、人間が地球の隅々《すみずみ》まで広がり、森やジャングルが切り開かれて都市に変わってゆくにつれ、妖怪たちのライフスタイルも変化を迫《せま》られた。自然を捨てて都市に移り住む妖怪が増える一方、都市でも新たな妖怪が次々に誕生した。彼らが人間に混じって暮らすのには、いろいろな苦労がある。そのため、妖怪同士が助け合うネットワークが、あちこちの街に自然発生的に誕生した。  国によって規模や形態は異なるものの、今では世界の主要都市のほとんどに妖怪ネットワークが存在する。ネットワーク間の連帯はゆるやかなもので、電話やファックス、インターネットなどで、情報を交換し合う程度だ。  発端《ほったん》は昨年の九月、台湾《たいわん》で起きた大地震《だいじしん》だった。台中市郊外にあった雑居ビルが倒壊し、 <虎門《フーメン》>という喫茶店《きいさてん》が壊滅した。そこは台湾最大の妖怪ネットワークの拠点《きょてん》で、数百年も生きてきた虎人族の長老が瓦礫《がれき》の下敷きになり、命を落とした。  それだけなら単なる不幸なニュースと考えてもよかっただろう。しかし、今年に入ってメキシコ、さらにボリビアでも同様の事件が起こると、世界各地の妖怪ネットワークに動揺《どうよう》が走った。いずれも地震国であり、大地震で多数の被災者が出ることなど珍《めずら》しくもない。だが、妖怪ネットワークの拠点ばかりが短期間に続けて打撃《だげき》を受けるとは、偶然《ぐうぜん》とは考えにくい。  特に異常だったのは、五月三日にボリビア中部で起きた地震である。首都ラパスにあった現地のネットワーク <トラベスーラ> が火災で全焼したのだが、その出火の模様が不自然だった。目撃《もくげき》者の証言によれば、地震の直後に天から火が降ってきて、ネットワークの拠点があった建物を炎《ほのお》で包んでしまったのだという……。  そして、今度はウガンダだ。 「ウガンダって地震が多いのか?」 「いちおう、アフリカを縦に走ってる大地溝帯の上にあるからね。地震は珍《めずら》しいことじゃない。しかし——」 「偶然が重なりすぎか?」 「そういうこと」 「こうなると」サングラスの中年男が重々しく口を開いた。「例の噂《うわさ》が、俄然《がぜん》、真実味を帯びてくるわけですな」  男の名は土屋《つちや》野呂介《のろすけ》だが、仲間内では「教授」と呼ばれている。仇名《あだな》ではなく、本当に私立大学の考古学教授なのだ。 「 <ザ・ビースト> か……」  流は暗い表情でつぶやいた。これまで被害を受けた三つのネットワークは、いずれも <ザ・ビースト> の陰謀《いんぼう》と戦った前歴があるのだ。  世界的な巨大組織であるにもかかわらず、 <ザ・ビースト> について分かっていることはあまりない。そのトップにいる七人の幹部は、『ヨハネの黙示録《もくしろく》』に預言された七つの頭を持つ獣《けもの》が七体に分身した姿で、世界の政治や経済を裏で操っていると言われているが、その全貌《ぜんぼう》は誰《だれ》にも分からない。  流たちも以前に何度か <ザ・ビースト> と戦ったことがある。東京に本社のある世界的大企業シャイアーテックス社が、 <ザ・ビースト> の隠《かく》れ蓑《みの》のひとつであることも、今では明らかになっている。ネットワーク内を流れる噂《うわさ》によれは、シャイアーテックス社の社長、大堂寺《だいどうじ》竜三郎《りゅうざぶろう》こそ、 <ザ・ビースト> の七人の幹部の一人だという。  もっとも、流たちはシャイアーテックス社のゲーム部門の小さな陰謀を潰《つぶ》したにすぎない。前哨戦《ぜんしょうせん》のそのまた前哨戦とでも言うべき戦いで、本格的に <ザ・ビースト> とぶつかったわけではない。おそらく <ザ・ビースト> の方でも、計画を邪魔《じゃま》する日本|妖怪《ようかい》の存在を煙《けむ》たがっているはずだが、これまで露骨《ろこつ》に挑戦《ちょうせん》してきたことはない。妖怪同士の全面戦争になれば面倒《めんどう》なことになると思っているのかもしれない。だから、目の上のコブと思いつつも、あえて無視してきたのだろう。  少なくとも、これまでは。 「ウガンダのネットワークも、 <ザ・ビースト> の恨《うら》みを買ってたのか?」 「まだ分からない。問い合わせ中だ」 「でも、本当にこれが人工的な地震なら、ひどい話だわ」いつもは温厚な霧香の口調が、珍しく怒《いか》りを帯びていた。「何人かの妖怪を殺すためだけに、何万人もの無関係の人を巻き添《ぞ》えにするなんて……」 「でも、人工的に地震《じしん》を起こすなんて、できるのかな?」  科学にうとい流には、その点が疑問だった。 「 <ザ・ビースト> の科学力なら、不可能じゃないだろうな」Eメールを送るためにキーボードを叩《たた》きながら、大樹が答えた。「連中のコネクションなら、核兵器《かくへいき》だって調達できるだろう。それを地下深くで爆発《ばくはつ》させれば……」 「でも、地震のエネルギーって、核兵器よりもはるかにでかいんだろ?」 「爆発そのものは単なるきっかけさ。地震のエネルギーは地下に蓄《たくわ》えられている。地殻《ちかく》に充分に歪《ゆが》みが蓄積《ちくせき》されている地域なら、それを刺激して、エネルギーを解放してやれば……」 「科学の力とは限らないわ」と霧香。「日本には大ナマズみたいに地震《じしん》を起こせる妖怪《ようかい》がいる。外国にも似たような妖怪がいてもおかしくはないわ。そいつが <ザ・ビースト> の配下に入ったのかもしれない……」 「となると、東京も……?」  大樹はうなずいた。「可能性はあるだろうな」  日本列島はプレートが複雑に衝突《しょうとつ》し合う地点に位置している。日本列島の東半分を載《の》せたオホーツク・プレートは、南東からはフィリピン海プレート、東からは太平洋プレートに常に押されている。年間数センチの速度で移動を続けるフィリピン海プレートは、相模《さがみ》トラフでオホーツク・プレートにぶつかり、その下に潜《もぐ》りこむ。太平洋プレートも同様に、日本海溝から沈下を開始し、フィリピン海プレートのさらに下に潜りこむ。そのため、関東地方の地下では、三つの巨大プレートがサンドイッチのように重なり合っているのだ。  それぞれ別の方向に移動を続ける三つのプレート。その境界面では常に巨大な力がかかっており、岩盤《がんばん》には歪《ゆが》みが蓄積する。歪み続けた岩盤が圧力に耐《た》えかねてついに破壊されると、地震が発生するのだ。だから関東地方には地震が多い。有感地震だけでも、年間四〇回も起きている。  一四万二〇〇〇人の犠牲者《ぎせいしゃ》を出した関東大震災以来、関東地方ではもう七七年も大きな地震が起きていない。地下深くにはすでにかなり大規模な歪みが蓄積されているというのは、地震学の専門家の一致した見解だ。それがいつ解放されても不思議はない。 「地震か……」それまで沈黙《ちんもく》していたマスターが、ぽつりとつぶやいた。「嫌《いや》だねえ……」  マスター——井神|松五郎《まつごろう》は、かなたの父で、関東地方に何百年も住んでいる化け狸《だぬき》だ。安政二年の江戸地震、大正一二年の関東大震災、そして昭和二〇年の大空襲と、東京が焼け野原になるのを何度も目撃《もくげき》している。  もう二度と、地獄《じごく》は見たくない。 「でも……でも、東京にはシャイアーテックスの本社があるんだぜ!」流は何とか希望をつなごうとしていた。「自分とこの本拠地をぶっ潰《つぶ》すようなことは……」 「しないだろう——と願いたいところだね」  通信を終了した大樹は、ノートパソコンを閉じた。長くモニターを見続けて目が疲れたのか、眼鏡《めがね》をはずし、指で目蓋《まぶた》を揉《も》む。 「でも、彼らは一度、それをやろうとしたことがある……」 「ああ……」 「だからこそ、シャイアーテックスの監視《かんし》が必要なんだよ。また何か大規模な計画を起こす気なら、必ず事前に何かの動きがある。それをキャッチできれば……」  数年前、 <ザ・ビースト> は東京の破壊《はかい》を企《たくら》んだことがある。大災害に伴《ともな》って起きる世界的な経済の混乱に乗じて、莫大《ばくだい》な利益を得ようと目論《もくろ》んだのだ。その陰謀《いんぼう》は、やはり東京構内に拠点《きょてん》を持つネットワーク <海賊《かいぞく》の名誉亭《めいよてい》> の活躍《かつやく》によって阻止《そし》されたものの、間一髪《かんいっぱつ》のところだった。  後で調べたところ、この時期、シャイアーテックス社にはいくつもの不審《ふしん》な動きがあったことが判明した。国内で順調に進んでいたプロジェクトの縮小。海外への工場移転。不利益になるとしか思えない資産の売却《ばいきゃく》……東京に災害が起きることを事前に知っていて、損害を最小限に抑《おさ》えようとしたとしか思えない。 「今のところ、怪しい兆候はない——そう思いたい。僕は経済や会社経営に関しては素人《しろうと》だから、断言はできないけどね。でも、見張っていれば必ず尻尾《しっぽ》が……」 「そうでしょうかねえ」教授は首をひねった。「大樹くんには悪いが、私はシャイアーテックスを見張っても無駄《むだ》じゃないかと思うんですがね」  教授の思いがけない発言に、一同は驚《おどろ》いた。 「どうして無駄なんです?」大樹が非難するように言った。 「考えてもみなさい。仮に犯人が次に我々《われわれ》を狙《ねら》ってくるとしてもですよ、はたして地震《じしん》で来ますかね?」  流ははっとした。 「地震以外の手で攻撃《こうげき》してくる……?」 「地震は単なるカムフラージュでしょう。私たち妖怪《ようかい》は、何しろ頑丈《がんじょう》にできている。弾丸の一発や二発、撃《う》ちこまれたぐらいじゃくたばらない。ビルの下敷きにするとか、火炎で焼き殺すとか、相当に乱暴な手段を用いなくてはならない。しかし、街中でそれをやると人目を惹《ひ》いてしまう。そこで——」 「地震を起こす?」  教授はうなずいた。「木の葉を隠《かく》すなら森の中、というやつですよ」 「その考えには一理あるわね」霧香は考えこんだ。「シャイアーチックスだってバカじゃないわ。私たちが監視《かんし》しているのに気づいているなら、目立つ動きは見せないでしょう」 「地震だけ警戒《けいかい》してても無駄ってことか……」 「それに」教授はつけ加えた。「一連の事件の犯人が <ザ・ビースト> と決まったわけでもないですしわ」 「まさか!」大樹は目を丸くした。「他に犯人がいるっていうんですか!?」 「 <ザ・ビースト> のしわざだという確固たる証拠があるわけじゃないでしょう? あるのは根拠のない噂《うわさ》だけです。もしかしたら、真犯人が疑いをそらすために流しているディスインフォメーションかもしれない……」 「でも、 <ザ・ビースト> 以外にこんなことをする連中はいませんよ!」 「おやおや、論理的な大樹くんらしくない」教授は笑った。「消去法というのは、複数の選択肢《せんたくし》の中に正解が必ずあることが分かっている場合にしか使えない論理ですよ」 「別の選択肢があると?」 「私には、ひとつだけ心当たりがあるんですがね。 <ザ・ビースト> に匹敵《ひってき》する——いや、もしかしてそれ以上の勢力が……」  大樹と教授は見つめ合った。霧香も顎《あご》に指を当てて考えこんでいるし、松五郎もグラスを磨《みが》く手を止めていた。  長い沈黙《ちんもく》が降りた。店内に響《ひび》く音は、誰《だれ》も弾いていないピアノから流れる調べだけ……。  四人の頭には、同じひとつの解答が浮《う》かんでいた——あまりにも恐ろしく、口にすることもはばかられる、ある名前が。 「……あまり信じたくはないわね」霧香が苦しそうに口を開いた。「 <ザ・ビースト> の方がまだましだわ……」 「私だって、誤りであってくれればいいと思いますよ」教授はため息をついた。「しかし、可能性があることは認めなくては……」 「可能性は——」大樹はうつむいた。「……確かにあります」 「もしそうなら、覚悟《かくご》を決めねばならんな」と松五郎。「苦しい戦いになるぞ……」 「おいおいおい、ちょっと待ってくれよ!」  一人だけ会話について行けない流が、苛立《いらだ》って声を張り上げた。 「どういうことなんだよ!? 四人とも、まるで世界の終わりみたいな深刻な顔して!」 「……世界の終わりなんだよ」  大樹がぽつりと答えた。  武蔵野市吉祥寺——  同日・午後八時(日本時間)——  吉祥寺駅から徒歩数分。商店街のはずれの小さな路地を入ったところに、その店はひっそりと建っている。 <古書 稀文堂>  毛筆でそう書かれた看板の下には、木枠《きわく》のガラス戸があり、白い文字で <ふるいほん 売り買いいたします> とある。まだ電気は点《つ》いているが、 <本日は閉店いたしました> と書かれた小さな札がかかっていた。  吉祥寺に長く住んでいた摩耶でさえ、こんな店があることを二年前まで知らなかった。あまりにも目立たない立地条件であるうえ、若い娘の注意を惹《ひ》く外観ではないからだ。木製の看板は古ぼけて黒ずみ、少し傾《かたむ》いている。ガラス戸も昭和初期から一度も交換していないのではないかと思える古いもので、もちろん自動ドアではない。この外観からは誰しも、老いた店主が一人で店番をしている姿を想像するだろう。 「こんばんは」  かなたががらがらと音を立ててガラス戸を開けた。摩耶も首をすくめるようにして、おずおずと後に続く。  見たところ、店内はそんなに広くはない。せいぜい十数|畳《じょう》といったところか。左右の壁《かべ》の本棚《ほんだな》、そして店の中央を仕切る本棚には、古今東西の古書が隙間《すきま》なく詰《つ》めこまれている。どの本にも丁寧《ていねい》にハトロン紙のカバーがかけられていた。見事に整頓《せいとん》されており、よくある街の古書店のように、未整理の本が床《ゆか》に積み上げられているということはない。店主の性格を反映しているのだろう。  その店主は、店の奥《おく》にあるレジで、一人でパソコンに向かっていた。今日の売り上げを計算しているのだろうか。 「文《ふみ》ちゃん、お久しぶり」  かなたが声をかけると、眼鏡《めがね》をかけた若い店主は顔を上げた。  摩耶が墨沢《すみさわ》文子《ふみこ》に会うのは、これが初めてではない。以前にも数回、かなたに誘《さそ》われて、この店に遊びに来たことがある。しかし、文子の顔を見るたびに、その不思議な美しさに軽いショックを受ける。  いつも陽の当たらない店内にいるせいか、肌は最高級の和紙のように白い。着ているものは白いブラウスと黒のスカート。ほとんど化粧《けしょう》もしていないし、アクセサリーの類も身につけない。色彩というものがまったく欠けたファッションは、とても現代女性とは思えない野暮《やぼ》ったさだ。  もっとも、派手《はで》な服や化粧で飾り立てる必要など、彼女にはないのである。眼鏡の奥に光る神秘的な瞳《ひとみ》に見つめられると、同性である摩耶でさえどきりとするほどだ。男性ならどれほど心揺《こころゆ》さぶられることか……。 「あれ?」  振《ふ》り向いたかなたが声を上げた。閉店しているはずなのに、客がいる。彼女たちが入ってきた通路とは本棚を隔《へだ》てた向こう側に、黒いジャケットを着た長身の白人男性が立っていたのだ。古ぼけた本を何十冊も平棚に積み上げ、熱心に読みふけっている。  新たな客の出現に気づき、男は顔を上げた。 「わお……」  かなたが小さく歓声《かんせい》を上げた。摩耶も思わず息を呑《の》む。まるで映画俳優のような美形だ。見かけの年齢《ねんれい》は二〇代なかばといったところ。髪《かみ》はカラスの羽根のように黒く、眼光は鋭《するど》い。美しさの中にも底知れない危険性を秘めており、猫科《ねこか》の肉食獣《にくしょくじゅう》のような印象がある。黒い革のジャケットの胸をだらしなくはだけさせ、汗《あせ》ばんだアンダーシャツと、ドクロの形の銀色のペンダントを露出《ろしゅつ》している。ひと昔前のロッカーのようなファッションだ。  摩耶は慌《あわ》てて会釈《えしゃく》した。青年は少しだけ少女たちに興味をそそられたらしいが、すぐに読書に戻《もど》った。 「……あの人、関係者?」  かなたがささやくと、文子は小さくうなずいた。 「ええ……」  それですべてが通じた。�関係者�というのは彼らの間での隠語《いんご》で、妖怪《ようかい》仲間を意味する。 「やっぱりねえ」  かなたは納得した。妖怪の中には超絶的《ちょうぜつてき》な美貌《びぼう》を持つものも少なくない。男の容姿が人間離れしているのも、人間ではないのだから当然だ。  もっとも、どんな妖怪であるかは、かなたにも分からない。彼女の鋭敏な嗅覚《きゅうかく》には、古本の黴臭《かびくさ》い匂《にお》い、傍《そば》にいる摩耶の汗《あせ》の匂いなどに混じって、嗅《か》いだこともない不思議な体臭がかすかに感じられた。獣《けもの》の匂いではないので、動物系の妖怪ではないことは確かだが……。 「でも、外国からってのは珍《めずら》しいね」  小さいながらも、 <稀文堂> は地球上のどんな古書店よりも品揃《しなぞろ》えがいい。そのことは日本全国の妖怪ネットワークに知れ渡っているので、何か重要な調べものをしたい妖怪が、しばしば <稀文堂> を訪れる。かなたたち <うさぎの穴> のメンバーも、文献調査の面で何度も文子の力を借りていた。  妖怪の世界も今やインターネットの時代。 <稀文堂> の評判が海外まで知れ渡っていたとしても不思議はない。しかし、わざわざ外国から足を伸《の》ばしてくるとは、確かに珍しい。よほど重要な調べものなのだろうか……。 「あの……例の本……」  文子がささやいたので、かなたはようやく用件を思い出した。 「そうそう、それだった。摩耶ちゃん、行こう」  文子が立ち上がり、入口に向かって歩き出す。摩耶とかなたは、謎《なぞ》の美青年に心|惹《ひ》かれながらも、彼女について歩き出した。  店にはほとんど奥行きがない。彼女たちの歩幅なら、ほんの一〇歩も歩けば入口にたどりついてしまうはずだ——常識で考えればそうなるはずなのだが、三人がいくら歩いても、入口のガラス戸に突《つ》き当たる気配がない。  文子が歩くのに合わせて、本棚と通路がどこまでも伸《の》びてゆくのだ。  武蔵野市吉祥寺——  同日・午後八時一〇分(日本時間)——  駅から歩いて五分ほどの繁華街にあるコンビニに、若い白人男性がふらりと入ってきた。髪《かみ》は明るいブラウンで、顔立ちはまだ少年と呼んでいいほど幼く、背も白人にしては高くない。服装はラフだが、明るい色でまとめられ、清潔な印象がある。平静を装ってはいるが、その表情はやや緊張していた。  店内を見回した少年は、ゲームソフトのコーナーで宣伝用ビデオに見入っている金髪の男性を見つけた。つかつかと歩み寄ってゆく。  それを横目で追いながら、レジの女店員は心の中で「ラッキー!」とつぶやいていた。こんなかっこいい美形を一晩に二人も目にできるなんて、めったにないことだ。彼女はたちまち妄想《もうそう》をふくらませた。彼らは兄弟だろうか? それともホモ関係……?  しかし、二人は彼女の反応など気にも留《と》めていない。 「|M《エム》……」  少年はイニシャルで呼びかけた。金髪の青年はすらりとした長身で、少年の頭は彼の肩の高さまでしかない。呼びかけられても振《ふ》り向きもせず、モニターを眺《なが》めている。ファンタジーRPGのCMらしく、翼《つばさ》を持つ少年戦士が巨大な竜《りゅう》に挑《いど》みかかろうとしていた。少年の槍《やり》からほとばしった稲妻が、竜の顔面に命中し、派手な炎《ほのお》とともに鱗《うろこ》をはじき飛ばす。 「状況《じょうきょう》は?」  Mと呼ばれた青年は、画面を見てはいるものの、その表情は冷やかで、かすかに嘲笑《ちょうしょう》の色さえ浮かんでいた。 「フェザーは四〇分前に店に入りました。後から若い娘が二人…… <うさぎの穴> の関係者のようです。今は|S《エス》が監視《かんし》しています」  彼らの二メートル横には雑誌を立ち読みしている中年サラリーマンがいたが、その注意はグラビアページのヘアヌード写真に向けられていて、二人の会話は耳に入っていなかった。イニシャルで呼び合っているのは用心のためだが、たとえ聞こえていたとしても、男には理解できなかっただろう。  彼らの会話はヘブライ語だったから。 「トラックの方は?」 「こちらに向かっていることを確認済みです。指定した時刻まで……」少年は腕時計に目をやった。「あと一時間四九分」 「遅く設定しすぎたな。フェザーが用件を終えて店を出ている可能性が高い」 「申し訳ありません」少年は恐縮した。「人通りの多い時間帯では目立つと思ったからです。それに事態の急転が予想外でした。奴《やつ》が今日のうちにトーキョーに到着するとは……」  Mは軽く舌打ちした。「やはりベルリンでまかれたのが痛かったな」 「あの男を急がせましょうか? 新たなメッセージを与えて……」 「それはまずい」Mは冷静に言った。「メッセージが変わるのは不自然だ。手順が狂えば不発に終わる危険もある」 「はい……」 「予定通り実行させろ。どのみち、あの店は消さねばならない。あの女の能力は危険すぎるからな」 「フェザーは?」 「いっしょに始末できるなら僥倖《ぎょうこう》だが、そうでない場合、我々《われわれ》が直接手を下す必要がある」  少年は軽く眉《まゆ》をひそめた。「それは基本戦略に反するのでは……?」 「もちろんだ。うかつに奴《やつ》の前に姿を現わして、我々の正体が露見すれば、これまで極秘に進めてきた計画がご破算だからな。だからこそ、回りくどい手を使ってきたのだ。しかし、すでに計画は露見する寸前だ。フェザーがどこまで証拠を集めたのかは分からないが、危険なまでに真相に迫っていることは確かだ。何としても奴の口をふさがねばならん」 「では、私が……」 「いかん。戦力を集めるのを待て。|B《ビー》、お前はSと交替しろ。奴から目を離さず、これまで通り、遠くから監視《かんし》するのだ。状況《じょうきょう》が変化したらすぐに知らせろ。うかつに近づくな」 「警戒しすぎではありませんか?」Bと呼ばれた少年は不満を洩《も》らした。「たかが屑《くず》デーモン一匹ではありませんか」 「奴には分からないことが多すぎる」Mは不愉快《ふゆかい》そうに言った。「 <Xヒューマーズ> でもコードネームでしか呼ばれていない。正体がまったくつかめないのだ。だから力量を推測することもできん。油断してかかると、痛い目に遭《あ》うかもしれん」 「しかし、奴はすでに <うさぎの穴> と接触しています。奴の口から <うさぎの穴> に情報が洩れたら……」 「その場合は緊急《きんきゅう》処置を発動するしかあるまいな」 「というと?」 「 <うさぎの穴> を潰《つぶ》す」  まるで明日の朝食の話をしているような口調で、Mは言った。 「伏線《ふくせん》は張ってある。うまく運べば、他のネットワークには <ザ・ビースト> のしわざだと思わせることができるだろう」 「しかし、手後れだったら……?」 「その場合でも、敵に先制|攻撃《こうげき》を加えて戦力を削《そ》ぐ意味はある。すでにウガンダのチームには連絡を取った。 <キダリ・ヤ・キブルー> の後始末が終わりしだい、こちらに来るようにと」 「では、この街も……?」 「そうだ」  宣伝用ビデオの中では、新たなゲームのCMがはじまっていた。恋愛シミユレーション・ゲームらしく、赤い髪《かみ》の水着姿の美少女がこちらに微笑《ほほえ》みかけている。  Mはゆっくりと店内を見回した。あふれかえるほどの酒やジャンクフード。週刊誌のヌード写真を見てにやけている中年男。けらけらと笑い合っているガングロの女子高生たち。そしてモニターの中で肌もあらわな格好で挑発的《ちょうはつてき》なポーズを取る少女——それらすべてに向かって、Mは露骨《ろこつ》な軽蔑《けいべつ》の視線を投げかけた。 「……バビロンはすべて滅《ほろ》びる定めなのだ」  武蔵野市吉祥寺・ <稀文堂> ——  同日・午後八時二〇分(日本時間)——  無限に続く通路を、三人は歩き続けた。左右の本棚《ほんだな》にはありとあらゆる種類の本が並んでいる。ハードカバー、文庫本、昔の和綴《わと》じ本、分厚い事典や図鑑《ずかん》類……英語やフランス語、中国語のタイトルも散見できたし、どこの国の文字か分からない本もあった。  一五分以上も経《た》っただろうか。とっくに吉祥寺市から出ているはずの距離を歩いたところで、文子は立ち止まった。 「これ……」  文子の白い指が本棚に伸び、一冊の本を迷うことなく抜き出した。彼女の選択に間違いはない。彼女はこの店に存在する何百万冊という本の場所をすべて熟知しているのだ。 「うわあ……」  摩耶は感嘆《かんたん》の声を洩《も》らした。文子から手渡されたのは一冊の厚いマンガ本である。その表紙には、彼女の大好きなマンガ家の名前と、夢にまで見たタイトルが書かれていた。  日本中の古書店をめぐっても、何万円出しても、この本は手に入らない。なぜなら、これはついに出版されることのなかった本だからだ。作者はライフワークとしてこの作品を描《か》き続けてきて、結末まで構想していたものの、トラブルがあって連載《れんさい》が中断、やがて作者が病死し、最終巻が未完に終わってしまったのである。  この世に存在したすべての本——いや、たとえ存在しなくても存在した可能性のある本なら、文子はそれを実体化できる。それが本の妖怪《ようかい》、文車妖妃《ふぐるまようき》である彼女の能力なのだ。 「あ……ありがとうございます!」  摩耶は文子にぺこりと頭を下げた。感激のあまり、通路がいつの間にか元の長さに戻《もど》り、入口のガラス戸のすぐ傍《そば》に立っていることにも気づいていなかった。 「ほら、早く読もうよ、摩耶ちゃん」  かなたが急《せ》かした。持って帰ってじっくり読みたいところだが、それはできない。実体化した本が存在できるのは <稀文堂> の中だけなのだ。 「うん」  摩耶は震《ふる》える指でページをめくりはじめた。  三鷹《みたか》市新川——  同日・午後九時一〇分(日本時間)——  団地の一画の目立たない場所にトラックを止めた蔵沢は、暗い貨物室の中で、最後の準備に取りかかっていた。  おもちゃ屋で買った子供用のビニールプール。それを膨《ふく》らませて床に置き、ガソリンで満たす。ガソリンというのは、ただ火を点《つ》ければいいというものではない。ガソリンの蒸気が空気中に一〜七パーセント混合しないと、効果的な爆発《ばくはつ》が起きないのだ。気化したガソリンを密閉した空間に充満《じゅうまん》させる必要がある。トラックの貨物室はその目的に最適だった。  薄いオレンジ色の液体をビニールプールに満たし終えると、残りのポリタンクの蓋《ふた》もすべて開いた。すでに貨物室の中にはガソリンの強烈《きょうれつ》な悪臭《あくしゅう》が充満している。念のために水中|眼鏡《めがね》をかけ、タオルで口を覆《おお》っているにもかかわらず、眼からは涙《なみだ》がぼろぼろ出るし、頭痛もしてきた。早く済ませないと倒《たお》れてしまいそうだ。  だが、最後の仕上げが残っている。  彼は用意したバッグを開け、手製の装置を取り出した。アルミの板で覆《おお》われた直方体で、大きさは弁当箱ほど、上部にタイマーとボタンがついている。地元の電気店で買い集めたパーツを組み合わせたもので、単一電池四本が内蔵されており、決められた時間が来ると、側面に露出した電極から連続して火花が散る仕掛けだ。学生運動の闘士《とうし》だった頃《ころ》、過激派の爆弾作りに協力した経験が役に立った。  俺の人生にはすべて意味があったのだ——時限発火装置を愛《いと》しそうに見下ろしながら、蔵沢は確信していた。大学の工学部に進んだのも、学生運動に熱中したのも、配送会社の運転手になったのも、この日、この時のために用意された伏線《ふくせん》であり、入念に練り上げられた神のシナリオであったのだ。  二〇〇〇年六月一日午後一〇時ちょうど。吉祥寺のある場所で爆発を起こすための。  その爆発が何を目的としたものなのか、蔵沢は教えられていないし、知ろうとも思わない。神の深遠な計画の一部に違いない。しかし、神の考えに間違いがあるはずがない。爆発によって神の計画が完遂《かんすい》し、サタンの勢力が滅《ほろ》びることは確かだ。  無論、多少の犠牲《ぎせい》は出るだろうが、たいしたことではない。  彼はセットした時間を確認すると、自信たっぷりに発火装置のスイッチを入れた。もう止められない。目立つ場所に付けられた <STOP> と書かれたボタンはダミーで、押せば設定時刻前でも発火する。無理に分解しようとすれば、内部の安全回路が切断され、やはり発火する。  装置をポリタンクの間に隠《かく》すと、外に出て扉《とびら》を閉めた。水中|眼鏡《めがね》とタオルをむしり取り、十数分ぶりに新鮮な空気を呼吸する。  頭がすっきりしたところで運転席に向かった。一箇所《いっかしょ》に長く止まっていると怪《あや》しまれる。もう少しこのあたりを走り回っていれば、ガソリンの気化が進行し、爆発には理想的な条件になるだろう。  予定時刻まで、あと四六分。 [#改ページ]    3 炎に散る  武蔵野市吉祥寺・ <稀文堂> ——  同日・午後九時四五分(日本時間)—— 「はあ……」  ため息とともに、摩耶はマンガを読み終わった。一時間半も立ち続けたので、足が痛くなっているが、そんなことも気にならないほど熱中していた。  圧倒的なスケールの物語だった。広大な宇宙と数万年の時間を超《こ》えて、想像力の限界に挑《いど》むかのようなドラマが展開されていた。残酷《ざんこく》な運命に翻弄《ほんろう》される主人公たちを通して、作者は壮大《そうだい》な問いを発している。宇宙にとって生命とは何か? 人生に、生きるということに、どんな意味があるのか? 神とは? 人間とは?  それらの問いには明確な答えが出ないまま、物語は終わる。だが、尻切《しりき》れトンボという印象はない。「そんな深遠な問いに安直な答えを求めること自体が間違いなんじゃないか」と、作者は登場人物の一人に言わせている。それは人間ひとりひとりが死ぬまで悩み続けなくてはならないことなのだ、と。  不満な点もいくつかあるが、摩耶はたっぷり感動した。作品そのものも素晴らしかったが、生きている間は具象化されることのなかった作者の想いを受け止めることができたのが、何よりも嬉《うれ》しかった。  最後のページを閉じたとたん、本は彼女の手から消え失《う》せた。もともと存在しなかった本は、役目を終えれば本来の場所に戻る。 「……良かったね」  横から覗《のぞ》きこんでいたかなたがささやく。 「うん」  摩耶は小声で、しかし力強く答えた。感動の余韻《よいん》を深く噛《か》み締《し》めながら、この物語は決して忘れまいと心に誓《ちか》う。たとえ作者は死んでも、私が覚えているかぎり、作者の伝えたかったメッセージは死なない……。 「本当にありがとうございました」  もう一度、摩耶は深く頭を下げ、文子に礼を言った。完結しなかった幻《まぼろし》の作品の続きを読みたい、などというわがままな望みを叶《かな》えてくれたことに、いくら感謝しても足りない。 「……いいんです」  文子は恥《は》ずかしそうに、消え入りそうな小さな声で言った。 「それが本の望みですから……」 「え?……あ、はい。そうですね」  文子の言わんとしたことを、摩耶はすぐに理解した。  大切な言葉を伝えたい。誰かに自分の書いた本を読んでもらって、自分の喜びや悲しみや悩みを分かち合って欲しい——それがすべての書き手の想い。その想いがこめられた本たちもまた、読んでもらうことを願う。  地球上でかつて書かれた何百万冊という本。その何倍もの数の書かれなかった本。何百万人という書き手たちそれぞれが本にこめた、あるいはこめようとした、欲望、思惑《おもわく》、恨《うら》み、優しさ、祈《いの》り、喜び、期待……そうした想いが集まって生まれた文子が、現実をも歪《ゆが》める力を持つのは、いわば当然のことだろう。  無論、読者は誰でもいいというわけではない。何の感動もなく読み捨てられることを、本たちは望まない。その本を心の底から読みたいと願っている者、どうしても必要としている者だけが、 <稀文堂> の本を読む資格があるのだ。 「ねえ、あの人、まだいるよ」  帰ろうとした時、かなたがささやいた。見ると、あの黒ずくめの青年はまだ古本を読みふけっている。二時間の間に、積み上げられた本の山はかなり低くなっていた。読みながら何度もページをめくる手を止めては、熱心にメモを取っている。その表情はなぜか険しい。  摩耶は不思議なときめきを覚え、青年から目が離せなかった。美しい容姿に惹《ひ》かれるのはもちろんだが、本を読みふける真剣《しんけん》そのものの態度にも興味をそそられる。学究肌のように見えないだけに、何を熱心に読んでいるのかが気になった。しかし、声をかける勇気はない……。  見つめられていることに気づいたのか、青年はふと振り向いた。摩耶と視線が合う。  青年は露骨《ろこつ》な誘惑《ゆうわく》の笑みを投げかけてきた。子供のような無邪気《むじゃき》さと犯罪者のような危険性が混じり合った、神秘的な魅力《みりょく》を秘めた笑みだ。どんな男嫌いの女性でも心を揺《ゆ》さぶられるだろう。ましてや、免疫《めんえき》のない摩耶はひとたまりもない。 「あ、あの……エクスキューズ・ミー!」  混乱してとっさに口にしてから、摩耶は自分を怒鳴《どな》りつけたくなった。何をやってるんだろう、私。知らない人をじっと見つめるなんて、失礼もいいところだわ……。 「What can I do for you?(用件は何かな?)」  青年が思いがけず優しい口調で問いかけてきた。高校時代、英語の成績はクラスでトップだったので、基本的な会話なら理解するのに支障はない。にもかかわらず、摩耶はとっさに返答が思いつけず、「アー……」と言ったまま詰まってしまった。  恥ずかしさのあまり、今すぐ走って逃げ出したかった。その一方、青年にもっと近づきたいという強い欲求も覚えていた。反対方向に作用する二つの力の間で、摩耶は宙ぶらりんになり、その場に立ちすくんだまま動くことができなかった。  狼狽《ろうばい》している少女を見かねて、青年は笑いながら助け舟を出した。 「俺に訊《き》きたいことがあるんじゃないか?」  語学力を考慮《こうりょ》したのか、青年はなるべく簡単な英語で言った。摩耶は聞こえないほど小さな声で「イエス……」とつぶやき、うなずいた。 「俺が何の本を読んでるか知りたい……そうだろ?」  摩耶はまたうなずく。すでに彼女自身の意志というものはない。青年の視線の糸で縛《しば》られ、あやつり人形にされた気分だった。 「残念ながら、これは女の子にお勧《すす》めできる本じゃないな……」  青年は自分の手にしている本の表紙に目をやり、なぜか少し表情を曇《くも》らせた。タイトルはドイツ語のようだ。  少し考えてから、彼はまた顔を上げ、摩耶を真正面から見つめた。 「君たち、 <うさぎの穴> の人?」  青年は「burrow」とは言わず、「ウサギノアナ」と発音した。 「はい……」 「だったら、話してもいいか——ホロコーストって知ってるかな?」  摩耶はどうにか頭の中で英語を組み立てた。 「ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策のことですよね? 第二次世界大戦中の……」  もっとも、彼女のホロコーストについての知識の大半は、『シンドラーのリスト』を見て得たものだ。 「そうだ。何百万という罪のない人たちが捕らえられ、家畜運搬《かちくうんぱん》用貨車に詰めこまれて強制収容所に送られた。大勢の人間、女や子供までもがガス室で虐殺《ぎゃくさつ》された。処刑されなかった者も、多くは収容所の劣悪《れつあく》な環境《かんきょう》下で、飢《う》えや病気によって死んでいった……」 「どうして?」摩耶にはその点が理解できなかった。「どうしてそんなひどいことをしたんですか?」 「清潔な世界を作るためさ!」青年は吐き捨てるように言った。「犯罪者も病人も貧乏人もいない理想の世界——それをヒトラーは夢見た。その理想の実現のために、彼らは自分たちの基準で�劣悪�と判断した者すべてを抹殺《まっさつ》しようとした。ユダヤ人だけじゃない。ロマ、精神病|患者《かんじゃ》、身体障害者、共産主義者も大虐殺されている。  この本はシュトライヒャーという元SS大佐の回想録だ。彼はポーランドで強制収容所へのユダヤ人移送に携《たずさ》わった人物でね。長らく名前を変えて東ベルリンに住んでたんだが、年老いてから戦争時代の回想録を執筆《しっぴつ》していた。その中では、これまで知られていなかったある事実が明らかにされるはずだった」 「事実?」 「彼が生前、知人に洩《も》らしたところによれば、終戦直前、SS長官ヒムラーからの極秘の指令があったというんだ。移送するユダヤ人の中から、六歳から一五歳までの少年だけを選《え》り分け、別の貨車に乗せるように——しかし、終戦直前にすべての資料が焼却《しょうきゃく》されたうえ、責任者のヒムラーも自殺してしまった。子供たちがどこに送られたのか、どんな運命をたどったのか、まったく分かっていない。手がかりになるのはシュトライヒャーの記憶《きおく》だけだが、彼は本を書き上げる直前に不審《ふしん》な火災で死亡し、原稿も焼失した……」 「それでこの店に?」 「そうだ。シュトライヒャーが何を書こうとしたのか、どうしても知りたくてね。足を運んだ甲斐《かい》はあったようだ。それからこっちは——」  青年は平台に積まれた数冊の本を指差した。 「カンボジアのポル・ポト政権下で、大量虐殺を取材していたアメリカ人記者のルポルタージュだ。彼も帰国直前に地雷《じらい》を踏《ふ》んで死に、結局、この本は書かれることはなかった。こっちの本は、一九七〇年にバングラデシュを襲ったサイクロンの記録だ。暴風と高波が家を押し流し、死者の数は二〇万人から五〇万人と言われている。その下にあるのは、一九七六年に中国北部で起きた大地震の記録。この地震では二四万人が死んだ。同じ年、グアテマラでも二万三〇〇〇人が死んでいる。いちばん下のは、九〇年代のザイール内戦のドキュメント……」 「あ、あの、ミスター……?」 「フェザーだ。仲間内ではそう呼ばれてる」 「フェザー……どうしてそんなことを調べてるんですか?」 「共通点を確認してる」 「共通点?」 「そう。この半世紀間に起きたこれらの大量|殺戮《さつりく》の背後では、いずれもある事件が起きている。つまり——」  二人が話している間、かなたは退屈《たいくつ》そうにしていた。彼女には英語は分からないので、二人の会話についていけないのだ。  何気なく棚《たな》の古本の列を眺《なが》めて時間を潰《つぶ》していると、ふと、彼女の敏感な鼻孔《びこう》を刺激するものがあった。 「ねえ」かなたは鼻をひくひくさせて言った。「何かガソリン臭くない?」 「え?」  一同ははっとしてガラス戸の外を見た。  後部にカモシカの絵が描《えが》かれたトラックが、後ろ向きにゆっくりと路地に入ってくるところだった。  指定された場所にトラックを止めると、蔵沢はエンジンを止め、キーを抜いた。緊張《きんちょう》のあまり動悸《どうき》が激しくなっている。しかし、この土壇場《どたんば》でミスをするわけにはいかない。彼は懸命《けんめい》に平静を保とうとしていた。  急いで外に出ると、左右を素早く見回した。誰にも見られていないのを確認してから、鉄格子の蓋《ふた》がついた下水口にキーを投げこむ。万が一、捕まっても、キーがなければトラックは動かせない。  そのまま何事もなかったかのように歩み去ろうとしたその時—— 「ちょっと、そこの!」  古書店のガラス戸ががらっと開き、少女が怒鳴った。蔵沢は慌《あわ》てて駆《か》け出した。たっぷり一〇メートルは離れているし、少女の脚《あし》ぐらい簡単に引き離せる自信があった。  ところが、路地から出る前にあっさり追いつかれてしまった。背後から体当たりをくらい、路上に押し倒《たお》される。振り払おうとしてもがくが、背中に飛び乗った少女の腕力は見かけによらず強い。もたもたしているうちに、援軍《えんぐん》がやって来た。 「立て!」  フェザーは男の襟首《えりくび》をつかむと、強引に起き上がらせた。手足をばたつかせるのを無視し、ずるずるとトラックの方に引きずり戻す。クレーンのような怪力《かいりき》で、人間が抵抗《ていこう》できるものではない。  蔵沢は乱暴に投げ出された。トラックの側面に後頭部をぶつけ、一瞬《いっしゅん》、気が遠くなる。 「言え! 何をしていた!? この中身は何だ!?」  フェザーは怒鳴りつけたが、男の意識は朦朧《もうろう》としている。たとえ意識を取り戻しても、英語が分からないかもしれない。 「ちっ!」  訊問《じんもん》する時間も惜《お》しいと判断したフェザーは、無抵抗になった男を路上に放り出すと、トラックの背後に回りこんだ。取っ手をつかみ、鍵《かぎ》のかかった扉《とびら》を怪力でこじ開ける。 「うわっ!? 何、これ!?」  かなたが口を押さえ、悲鳴のような声を上げた。扉が開放されるとともに、ガソリンの猛烈《もうれつ》な悪臭が流れ出したのと、積み上げられたポリタンクの山を目にしたからだ。 「どうかしたの……?」  まだ状況が理解できない摩耶が、 <稀文堂> のガラス戸から顔を出し、間の抜けた問いかけを発した。 「来るな!」  フェザーは怒鳴りつけた。 「早く逃げろ! 爆発《ばくはつ》する!」  青年の剣幕にびっくりし、摩耶は店の奥《おく》にひっこんだ。  フェザーは跳躍《ちょうやく》して貨物室に飛びこんだ。中は暗かったが、彼の目は暗闇《くらやみ》でも昼間のように見通せる。ほんの数秒で、ポリタンクの間に隠《カく》してあった時限発火装置を発見した。だが、止め方が分からない。 「うわっ、やぱーっ!」  彼の肩越《かたご》しに装置を覗きこんだかなたは蒼白《そうはく》になった。装置の上部についたタイマーに、残り時間が表示されている。  二分五七秒前。五六秒。五五秒。五四秒……。 「早く! 早くそれ押して!」  かなたは手を伸ばし、 <STOP> と書かれたボタンを押そうとした。 「触るな!」  フェザーは彼女の手を払いのけた。時限装置にあからさまに <STOP> と書かれているのはおかしい。ダミーである可能性が高い。  周辺の住民を避難《ひなん》させるべきか? いや、二分やそこらでは間に合わない。事情を説明している間にタイムリミットが来てしまう。  装置の前にしゃがみこみ、彼は凍《こお》りついたように動きを止めていた。慎重《しんちょう》に対処しなくてはならない。大勢の人の生命がかかっているのだ。うかつな行動は破滅を招く。  あと二分三五秒。 「早く逃げて、文子さん!」  摩耶は文子の手を取り、裏口の方向へ引っ張った。 「火事になるのよ!」  彼女が本の化身であることは知っている。火は紙にとって大敵。ガソリンに引火し、この店が炎に包まれたら、いくら何世紀を生きてきた妖怪《ようかい》でも無事では済むまい。  だが、なぜか文子はレジの傍《そば》に立ちつくしたまま、動こうとしない。 「何やってるの!? ここにいたら死んじゃうのよ!? 早く!」  文子はかぶりを振った。 「いいの……」 「いいのって……どういうこと!?」  文子は摩耶の問いに直接答えようとしなかった。その代わり、本棚に手を伸ばし、一冊の本を抜き出す。タイトルも何もない真っ白な本だ。  中を開いたが、どのページにも何も書かれていなかった。にもかかわらず、文子はあるページを開き、そこを読み上げた。 「摩耶ははっとした。文子が何を言わんとしているのかを埋解したのだ……」  摩耶ははっとした。文子が何を言わんとしているのかを理解したのだ。  文子はさらに読み続ける。彼女が読み上げると、まったく同じ文章が白紙のページの上に浮かび上がってゆく。同時に、それは現実となる。 「なぜ文子が逃げようとしないのか、その理由に摩耶は思い当たった」  なぜ文子が逃げようとしないのか、その理由に摩耶は思い当たった。  逃げても無駄《むだ》なのだ。彼女は <稀文堂> の本たちすべての化身なのだ。いや、本の方が彼女の実体と言えるかもしれない。だから文子だけが逃げても意味はない。本が燃えつきれは、彼女も消える。 「そんな……」  摩耶は愕然となった。  フェザーは装置を床に置いたまま、周囲のポリタンクを動かした。作業のための空間を確保してから、箱を四方からじっくり観察する。  箱の表面はのっぺりしており、ボタン以外の突起物といえば、側面から突き出ている電極らしきものだけだ。ここを絶縁《ぜつえん》すれば発火を防げるだろうか? いや、これもダミーである可能性がある。うかつには触れない。  箱の蓋はネジで留められたうえ、ごていねいにもネジ山をハンダでふさがれている。分解している時間はなさそうだし、強引に破壊するのも危険だ。分解しようとすると爆発するというのは、この手の装置の定石だ。  あと一分四〇秒。  床に顔をつけ、装置と床の接触面を観察した。見たところ無雑作に置かれており、箱の底には磁石や感圧センサーのようなものは見当たらない。ということは、持ち上げてもだいじょうぶか……。 「何やってんのよおーっ!?」  ガソリンの悪臭で咳《せ》きこみながら、かなたは泣きそうな声を出した。タイマーの表示は一分を切ろうとしている。フェザーは推理した。アンテナや受光部がないところを見ると遠隔《えんかく》操作ではない。男がトラックを止めてから、貨物室に近づく時間はなかった。ということは、タイマーはここに来る前にセットされたのだ。動かしたり触れたりするだけで爆発するような仕掛《しか》けを、車で運んでくるはずがない。目的地に到着する前に、振動《しんどう》で位置がずれて爆発する危険が高いからだ。それなら……。  彼は時限装置を両手でつかみ、思いきって持ち上げた。予想通り、爆発しない。ほっと安堵《あんど》すると同時に、それをかなたに手渡した。あと五〇秒。 「えっ? えっ? えっ?」 「捨ててこい!」  フェザーは強い口調で命じた。 「できるだけ遠くに!」  英語は分からなかったが、かなたは直感でその指示を理解した。時限装置を両手で捧《ささ》げるように持ち、貨物室から飛び出す。着地と同時に、アスファルトを蹴って猛然とダッシュした。高く跳躍し、前方に立ちはだかる民家の屋根を飛び越え、姿を消した。  まだ安心はできない。気化したガソリンがそこらじゅうに漂《ただよ》っていて、ちょっとした火花でも引火する危険がある。トラックを移動させた方がいい。  運転席に駆け寄ったフェザーは、キーが抜かれているのを見て舌打ちした。配線を直結させてエンジンを始動させるテクニックは知っているが、火花が散る危険があるので使えない。  蔵沢が意識を取り戻し、起き上がろうとしていた。フェザーは彼に飛びかかり、またも襟首をつかんで揺さぶった。 「キーはどこだ!? 分かるか? キーだ!」  蔵沢にも「キー」という言葉ぐらいは理解できる。あきらめたふりをして、のろのろと制服のポケットに手を入れた。  彼は心の中でほくそ笑んでいた。時限装置が発見されたことは、たいした問題ではない。�声�の指示には、彼自身の生死は含まれていなかった。たとえ死んでも、魂《たましい》は神の国に迎え入れられ、永遠の生命と幸福を約束されている。わざわざ時限装置を作ったのは、世界の運命を変える素晴らしい爆発を外から見てみたかったからだ。しかし、そんなささやかな願いぐらい、あきらめるのはたやすい。  予定の時刻から何秒かずれても、神は許してくださるだろう。 「捨てる捨てる捨てる……って、どこに捨てりゃいいのよーっ!」  暗い星空の下、時代劇に出てくる怪盗《かいとう》のように、民家の屋根から屋根へと跳躍を続けながら、かなたは悲鳴を上げていた。周囲はどこもかしこも家ばかりだ。安全な場所がなかなか見つからない。  ちらっと装置に目をやると、タイマーの数字は一五秒を切っていた。一四秒。一三秒。一二秒……。 「あれか!」  前方に広い空間が見えた。中学校のグラウンドだ。もちろん深夜だから人はいない。  あと七秒。 「えーい!」  ひときわ高く跳躍しながら、かなたは思いきって時限装置を放り投げた。装置は大きな弧《こ》を描いて飛び、フェンスの金網《かなあみ》を越《こ》えて、グラウンドにぽとりと落下する。  かなたは勢い余ってフェンスに衝突《しょうとつ》し、はね返された。道路に落下しそうになるが、とっさに電柱につかまる。  文子はさらに白紙の本を読み上げた。 「摩耶は彼女から手を離した」  摩耶は彼女から手を離した。 「泣きながら、一人で裏口に向かう」  泣きながら、一人で裏口に向かう。  行きたくはなかった。文子を置き去りにすることなどできなかった。だが、彼女の能力には逆らえない。店の外では無力な文子だが、この小さな店の中では、神にも等しい力を持つ。この空間そのものが一種のフィクションであり、彼女はいわばその作者なのである。自在に言葉を紡《つむ》ぎ出し、文字にすることによって、店内で起こるすべての事象を操ることができるのだ。本に書かれた言葉は決定|事項《じこう》であり、何者にも変えられない。  裏口の扉《とびら》から出ようとして、摩耶は最後に一度だけ、振り返った。文子は本から顔を上げていた。眼鏡《めがね》越しに摩耶を見つめる視線には、かぎりない優しさがこめられていた。 「……忘れないでね」  それが文子の別れの言葉だった。摩耶は涙を拭《ふ》いながら扉をくぐり抜けた。  決してこの夜のことは忘れない、と彼女は心に誓《ちか》った。 「何を考えている?」  男の唇《くちびる》の端《はし》にかすかに笑みが浮かんだのを、フェザーは見逃さなかった。敗北した者の表情ではない。勝利を確信した者の笑み……。  フェザーははっとして、ポケットから出てきた男の手を見下ろした。自分のうかつさに気づき、小声で毒づく。 「Shit!」  男が握《にぎ》り締《し》めていたのは、使い捨てライターだった。蔵沢は至高の歓喜とともに、親指に力をこめた。フェザーがもぎ取るより一瞬《いっしゅん》早く、男の指が動いた。電  柱にしがみつき、爆風《ぼくふう》に耐《た》えようとしていたかなたは、いつまでたっても爆発が起きないので、おそるおそる目を開けた。グラウンドに転がっている箱は、ジージーと小さな音を立てていた。側面から線香花火のように火花が断続的に散っている。 「へっ?」  かなたはあっけない結果に拍子《ひょうし》抜けした。てっきり箱が爆発すると思いこんでいたのだ。 「なあんだ、脅《おど》かさな……」  彼女はその言葉を言い終えることができなかった。大音響が轟《とどろ》いたかと思うと、あたりが真っ赤に照らし出されたのだ。 「嘘《うそ》……」  振り返ったかなたが見たものは、林立する建物の向こう、夜空に向かってむくむくと成長してゆく、毒々しいオレンジ色の炎のキノコだった。  爆発の衝撃波《しょうげきは》は <稀文堂> のガラス戸を粉々に打ち砕いた。炎とガラス片の混じった突風が、どっと店の中になだれこんできて、何百冊という本を棚《たな》から吹き飛ばし、レジの近くに立っていた文子に襲いかかった。  衝撃波が眼鏡を砕き、突風が黒髪をかき乱した。一瞬遅れて、炎の舌が到達し、彼女の全身を舐《な》め回した。ブラウスに火がつき、髪も燃え上がった。  乾燥《かんそう》した本は燃えやすい。たちまち店内は火の海と化した。何百冊、何千冊という本が、すさまじい勢いで燃えつきてゆく。店の外はさらにひどい状況で、炎が狭《せま》い路地全体に充満し、嵐《あらし》のように荒れ狂っていた。  文子はとっくに覚悟を決めていた。 <稀文堂> の内部では全能に近い彼女だが、その力は店の外には及ばない。店そのものが外から破壊されては、手の打ちようがないのだ。事象を操ることで店内の火災を消すことはできても、店全体を包む猛火《もうか》の前では、まさに焼け石に水だ。炎を伴《ともな》った爆発《ばくはつ》が入口の戸を吹き飛ばしたことで、結界が破れ、厳格な現実世界の物理法則が店内に侵入《しんにゅう》してきたのだ。  紙は燃える、という当たり前の法則が。  千数百年も生きてきた文子にとって、死はそれほど恐ろしいものではない。こんな日がいつか来ることは、ずっと以前から予感していた。それに、妖怪にとって死は一時的なものにすぎない。本を愛する人々の心があるかぎり、いつかまた復活できる。  この世に人がいるかぎり。  まだ引火していなかったポリタンクが誘爆《ゆうばく》した。さきほどよりは勢いの弱い第二の爆風とともに、燃えるガソリンのしぶきが店内に飛び散り、まだ火のついていなかった本も燃え上がらせた。同時に、文子の足許《あしもと》からひときわ大きな炎が噴き上がり、彼女の全身を包みこんだ。  炎の勢いが少し弱まった時、そこにはすでに彼女の姿はなく、薄い紙のような灰がちらちらと舞っているばかりだった。  摩耶が店を通り抜け、勝手口から路地裏に飛び出した直後、地面を揺るがすほどの大音響とともに、あたりが真っ赤に染まった。悲鳴を上げ、耳を押さえてうずくまる。屋根瓦《やねがわら》や金属片がばらばらと降り注いでくる。  すぐ近くに、鈍《にぶ》い音を立てて何か重いものが落ちてきた。目を上げた摩耶は戦慄《せんりつ》した。ポリタンクだ! 爆風でここまで吹き飛ばされてきたのだ。壊れたタンクからはガソリンが盛大に流れ出しており、さらにそこへ火の粉が降ってくる……。  走っていては間に合わない。摩耶はとっさに夢魔《むま》を呼び出した。黒い幽体状《ゆうたいじょう》の夢魔を身体の周囲にまとわりつかせ、実体化させる。夢魔は彼女の細い身体をぴったり包みこんで、生きた鎧《よろい》になった。顔面もヘルメットのような堅い殻《から》で覆《おお》われるが、半透明《はんとうめい》なので視界には支障はなく、呼吸もできる。  背中から生えた鎌《かま》のように細い翼《つぼさ》をさっと振り下ろすと、彼女の身体は夜空に向かって垂直に飛翔《ひしょう》した。その直後、流れ出したガソリンに引火し、路地裏も炎に包まれた。  三〇〇メートル離れたロフト吉祥寺店の屋上。本町新道を見下ろす <LOFt> と書かれた看板の上に立ち、右手にオペラグラス、左手に携帯《けいたい》電話を持って、Bは一部始終を観察していた。ここからなら <稀文堂> のある路地がよく見える。蔵沢が捕まった時には失敗かとあきらめかけたが、予定通りに爆発が起きてくれたので満足した。マインド・コントロールに三か月もかけた甲斐があったというものだ。 <状況は?>  携帯電話を通して、Mが問いかけた。 「成功です。店は炎上しています」 <フェザーは?> 「爆発に巻きこまれたのを目撃《もくげき》しました。生きてはいないでしょう——待ってください」  彼は双眼鏡を眼に当て直した。天まで立ちのぼる火柱と黒煙《こくえん》。その周囲を黒い人型をしたものが舞っている。  Bは舌打ちした。完璧《かんぺき》かと思ったのに、これでは画竜点晴《がりょうてんせい》を欠くというものだ。 「生存者がいます。始末します」 <待て。軽率な行動は慎《つつし》め> 「だいじょうぶです」  そう言うと、Bは通話を切った。折り畳《たた》んだオペラグラスと携帯電話をズボンのポケットに押しこむと、変身するために上着を脱《ぬ》いで上半身をさらけ出す。  彼は上司の用心深すぎる方針に反発を覚えていた。慎重《しんちょう》に行動することも肝要《かんよう》だが、限度というものがある。生存者がフェザーだとしたら、爆発で重傷を負っているはずで、とどめを刺すチャンスだ。 <うさぎの穴> の一員だとしても、もしフェザーから何かを聞かされていたとしたら、そこから計画が露見《ろけん》する危険が大きい。ここで口を封《ふう》じておいた方が賢明《けんめい》だ。  シャツを脱ぎ捨てると同時に、少年の姿が看板の上から消えた。 「ああ……!」  火柱の周囲を旋回《せんかい》しながら、摩耶は絶望の嗚咽《おえつ》を洩《も》らしていた。  炎は <稀文堂> を完全に包みこんだだけではなく、周囲の民家や商店を巻きこみ、火の海に変えていた。巨大なオレンジ色の炎の柱が龍《りゅう》のように身をくねらせ、汚らしい黒煙が夜空を覆ってゆく。その灼熱《しゃくねつ》の中心部では、熱せられたポリタンクが誘爆を続けていた。どんな御都合主義も文子を救えそうにない。フェザーやかなたはどうなっただろう? 爆発に巻きこまれたのなら、無事で済むとは思えない。  熱せられた空気が強力な上昇《じょうしょう》気流を生み、あたりでは激しく風が渦巻《うずま》いていた。轟音《ごうおん》に混じって、人々の悲鳴が聞こえる。この分なら鎮火《ちんか》まで何時間もかかるだろうし、何十人という単位で死傷者が出るのは間違いない。 「そうだ……救わなくっちゃ……」  摩耶はくじけそうになる心を必死で支えた。茫然自失《ぼうぜんじしつ》している暇《ひま》などない。地上ではこの瞬間《しゅんかん》も、大勢の人が炎に巻かれ、死んでいこうとしているのだ。彼らを一人でも多く助けるのが義務だ。  そう思って、地上に向かって降下しようとしたその時—— 「きゃあ!?」  いきなり真正面から直撃を受け、摩耶ははじき飛ばされた。見えない壁《かべ》にぶつかったかのようだ。一瞬遅れて、激痛が襲ってくる。平衡《へいこう》感覚が失われ、車輪のようにくるくる回転しながら飛ばされていった。懸命《けんめい》に翼をはばたかせ、安定を取り戻そうともがく。  ようやく回転が止まった——と思ったとたん、次の攻撃がきた。今度は側面を強打され、また何十メートルも飛ばされてしまう。夢魔の強力な鎧で守られていなければ、全身の骨が折れ、内臓が破裂していただろう。  何度も何度も、敵は攻撃してきた。実体ではなく、空気の塊《かたま》りをぶつけてきているようだ。摩耶には両腕で顔をガードするぐらいしか対抗《たいこう》する手段がない。反撃しようにも、よけようにも、相手の姿が見えないのだ。周囲を旋回する鳥のようなはばたきがかろうじて聞こえるが、炎の柱が発する轟音にまぎれて、位置がつかめない。  それをいいことに、相手は前後左右から繰《く》り返し攻撃を仕掛《しか》けてくる。そのたびに摩耶はビリヤードの球のようにはじき飛ばされた。夢魔の装甲《そうこう》は簡単に壊れたりはしないが、衝撃は相当のもので、一撃ごとに摩耶の意識は遠のいてゆく。すでにふらふらで、空中に浮かんでいるのがやっとの状態だ。  攻撃を仕掛けているBの方もあせっていた。下級のデーモンだと侮《あなど》っていたのだが、装甲がとてつもなく頑丈《がんじょう》だ。離れた場所から衝撃波を浴びせたぐらいでは、ちまちましたダメージしか与えられない。  第六階級のポテンティアテスほど強力ではないが、彼にも元素転換能力がある。ただし、目標に接近して静止した状態でないと使えない。接近戦を避《さ》けていたのは、相手からの反撃を警戒《けいかい》したからだが、どうやらこいつには透明なものを見る能力はないようだ。動きを封じたうえで、一気に接近し、とどめを刺してやろう。  頭上から強烈な直撃がきた。摩耶の身体は斜め下に向かってはじかれる。マンションの屋上が目の前に迫った。とっさに翼を広げ、ブレーキをかけようとする。そこへさらに背後からの一撃。摩耶は隕石《いんせき》のように落下し、屋上の円筒形の給水タンクに激突した。FRP製のタンクは夢魔の頑丈な身体に突き破られ、まっぷたつに割れる。  流れ出した膨大《ぼうだい》な水に押し流されて、摩耶はさらに三メートルも落下し、屋上のコングリー  トに叩《たた》きつけられた。一瞬、気を失ったため、精神集中が解け、夢魔《むま》の装甲が消滅した。滝のように流れ落ちる水を全身に浴びて、すぐに意識を取り戻したものの、立ち上がることもできない。びしょ濡《ぬ》れで弱々しくもがきながら、四肢《しし》を苛《さいな》む苦痛に呻《うめ》く。 (殺される……!? 誰《だれ》かが私を殺そうとしている!?)  その認識は摩耶を恐怖《きょうふ》させた。これまで何度か生命の危機に直面したことはあったが、これほど絶望的な状況だったことはない。相手に一発の反撃《はんげき》も与える機会もなく、なぶり殺しにされてしまうなんて……。 (だめ! まだ死ねない!)  絶望のどん底で、やけくその勇気が湧《わ》いてきた。痛む両腕を突っ張り、上半身を起こそうとする。私が死んだら、あの作者からのメッセージも失われてしまう。自分を犠牲《ぎせい》にして私を逃がしてくれた文子の心も無になってしまう。そんなことは許せない——絶対に! (あきらめちゃだめ! 考えるのよ!)  摩耶は自分を叱責《しっせき》し、必死に思考をめぐらせた。こんな時、アニメやマンガの主人公なら、どうやって危機を切り抜けるだろう……?  デーモンだと思っていたのが、少女の姿を現わしたので、Bは少しとまどった。しかし、殺さねばならないことに変わりはない。幸い、痛みのせいで動けないようだ。今なら簡単に元素転換できる。  女子供に対する慈悲《じひ》など、彼には微塵《みじん》もなかった。  Bは背中の翼を大きく広げ、滑空《かっくう》に移った。羽音ひとつ立てることなく、ゆっくりとマンションの屋上めがけて降下する。濡れた屋上に着地する際、ぴしゃりと小さな音がしたが、それも壊れたタンクから流れ落ち続ける水の音にかき消された。  彼は足音を忍ばせ、歩み寄っていった。あと数歩で元素転換できる距離だ。背後から接近する見えない敵に、少女はまったく気づいていない……。  ピピピピピ……。 (何!?)  突然、すぐ近くで発せられた音に、Bはたじろいだ。その正体を理解するのに、致命的な数秒が浪費《ろうひ》された。それは彼のズボンのポケットから発していた。 (こんな時に!)  その音に、摩耶は反射的に反応した。瞬時《しゅんじ》に夢魔を実体化させ、その腕を振り下ろす。夢魔の強烈《きょうれつ》な平手が、屋上のコンクリートを力いっぱい叩いた。  ばーん!  派手な衝撃音《しょうげきおん》とともに、屋上全体を濡らしていた水がいっせいに跳《は》ね上がり、一瞬、水滴のカーテンを形成した。それが落下する直前、摩耶は確かに見た——カーテンの一画に水しぶきをはじく空間があったのを。 「そこーっ!」  摩耶は突進した。でたらめに振り回した左腕が、見えない何かに触れた。とっさにそれをつかむ。相手はかん高い悲鳴を上げてもがき、摩耶に分からない言語で何かわめいた。摩耶はそれを無視し、相手の顔面と思われる場所へ、右の拳《こぶし》を続けざまに叩きつけた。 「このっ! このっ! このっ! このっ!」  でたらめに繰り出したパンチのひとつが側頭部にヒットした。衝撃を受けて、Bの精神集中が解ける。透明化《とうめいか》の術が破れ、虚空《こくう》にぼんやりと金色の影が現われた。摩耶はその腹のあたりめがけて、力いっぱいパンチを送りこんだ。 「このおおおおーっ!!」  強烈なストレートが鳩尾《みぞおち》に炸裂《さくれつ》した。Bは五メートル以上も吹き飛ばされ、共同受信アンテナに叩きつけられた。その姿が完全に現われた。 「そんな……!?」  予想もしなかったものを目にして、摩耶は驚愕《きょうがく》し、息を呑《の》んだ。急速に燃え上がった怒りが、水を浴びせられたように冷えてゆく。そんな……ありえない……。  天使だった。  Bは苦痛に顔をしかめながら、壊れたアンテナにからみついた純白の翼《つばさ》をもぎ離した。全身から薄い金色のオーラを発している。上半身は裸《はだか》で、手足は細く、中性的な体形である。少年のようなその顔は、まともに見つめたら失神しそうな美しさだ。ズボンのポケットに入っている携帯電話からほ、Mからの着信音が空しく鳴り続けている。 「よくも……」  少年は唇《くちげる》から血を流し、その壮絶なまでの美貌《びぼう》に憤怒《ふんぬ》の表情を浮かべていた。 「神の使いに逆らったな……」 「ああ……!」  摩耶はよろめき、尻餅《しりもち》をついた。恐怖と混乱で何も考えられなくなっている。心が千々に乱れたため、夢魔は消滅し、また無力な生身の姿をさらけ出していた。天使は一歩ずつ近づいてくるが、逃げることすら思いつけず、座りこんだまま凍《こお》ったように動けない。  カトリックの家に生まれ、ミッション系の学校に通っていた彼女にとって、神や天使という概念《がいねん》は親しいものだった。その存在を疑ったことはない。しかし、それが目の前に現われるとは——そして、自分を殺そうとしているとは、いったいどういうことなのか。  分からない。何も分からない。  天使は彼女の直前まで来て立ち止まった。美しくも冷酷《れいこく》な瞳《ひとみ》で少女を見下ろし、スカートから覗《のぞ》く白い素足に、おもむろに人差し指を突きつける。 「罰《ばつ》だ」  ぞっとする冷たい感触が脚《あし》に走った。驚いて下半身を見下ろした摩耶は、さらに信じがたい光景を目にした。脚が透き通ってゆく! 爪先《つまさき》から膝《ひざ》へ、さらに太腿《ふともも》へと、急速に肌の色が失われてゆき、コンクリートの床が透《す》けて見えている。  肉体を構成する分子がガラスに変えられているのだ。  恐怖のあまり逃げ出そうとしたが、すでに下半身が完全にガラス化しており、立ち上がることもできず、無益に身をよじるばかりだった。少年がゆっくりと指を上げてゆくにつれ、腹から胸にかけても急速に変化が広がっていった。着ていたワンピースや下着が、次には皮膚《ひふ》や肉が透明になり、内臓や骨盤《こつばん》が透けて見えた。それもほんの一瞬のことで、じきに身体《からだ》の中心まで透き通ってしまった。  パニックに陥《おちい》りながらも、とっさに手で顔をかばって、見えない力の放射をさえぎろうとした。だが、その手もすぐに透明になった。手の形をしたガラスを通して、勝ち誇《ほこ》った美少年の顔が歪《ゆが》んで見えた。  心臓が凍りつき、停止した。摩耶は恐怖に耐《た》えられず、悲鳴を上げようとしたが、声は出てこなかった。すでにガラス化が首まで進行し、声帯も凍りついていたからだ。網膜《もうまく》がガラス化すると何も見えなくなり、続いて何も考えられなくなった。脳が中心まで完全にガラスになってしまったのだ。  恐怖の表情を浮かべ、腕を振り上げて身悶《みもだ》えしたポーズのまま、摩耶はガラスの彫像《ちょうぞう》と化した。振り乱された髪の一本一本までもが細いガラス繊維《せんい》になり、宙空で凍りついている。ガラス玉と化したうつろな眼は虚空に向けられていた。 「ふん……!」  Bは軽蔑《けいべつ》の笑みを浮かべながら、少女の彫像を乱暴に足蹴《あしげ》にした。ガラス化して脆《もろ》くなったワンピースが割れる。彫像が横倒《よこだお》しになると、かしゃんという音を立てて繊細なガラス細工の髪が砕け、左手の手首がコンクリートにぶつかって折れた。  相手が完全に無抵抗になったのを見極めてから、Bはおもむろに数歩下がった。てこずらせたが、これで最期だ。この状態で衝撃波を叩きつけてやれば、ガラスは粉々に砕け散り、もはや再生は不可能になる。  彼が勝利を確信し、衝撃波を発生させようとしたその時——  背後で轟音《ごうおん》とともに炎が噴き上がり、マンションの屋上を真っ赤に照らし出した。 「何!?」  驚いて振り返ったBは、燃え盛る巨大なオレンジ色の火球が、屋上の縁《ふち》から朝日のように昇《のぼ》ってくる瞬間を目にした。火球は彼の頭上で停止すると、ごうごうと音を立てて渦《うず》を巻き、ビデオを逆回転したように縮みはじめた。炎が内側に吸いこまれ、急速に形になってゆく。 「……まさか!?」  彼は自分の目が信じられなかった。あいつのはずがない。あの伝説のあいつが、こんなところにいるはずがない……。  だが、それは事実であった。  炎を体内に吸収し、Bの前に実体化したのは、この世の常識を超越《ちょうえつ》した異様な生き物だった。ドラゴンを思わせる全身は炎のように赤く、大小六対もある翼で巨体を空中に支えている。蛇《へび》のように長い首が七本あり、それぞれに二面ずつ、計一四の顔があった。まだ完全に実体化が完了していないのか、赤い鱗《うろこ》に覆《おお》われた巨体のあちこちから、ぶすぶすと炎を発していた。 「……ついに尻尾《しっぽ》をつかんだぞ」  一四の口がいっせいに開き、フェザーの声で喋《しゃべ》った。今度はBが恐怖のあまり尻餅をつく番だった。 「あ……あああっ!?」 「俺があの程度の爆発《ばくはつ》でくたばると思ったか?——炎の子である、この俺が!」 「うわあああーっ!」  完全にパニックに陥ったBは、翼をはばたかせ、逃走しようとした。しかし、巨龍の方が圧倒的に速い。ほとんど瞬間移動のような速さでBの前に回りこむ。天使が慌《あわ》ててUターンしようと空中で停止した瞬間、七本の首が包みこむように襲いかかってきて、二枚の翼と両腕と両脚、そして頭に噛《か》みついた。  蜘蛛《くも》の巣に捕らえられた蝶《ちょう》のように空中に磔《はりつけ》にされ、Bは全身に走る激痛に悲鳴を上げた。逃れようと狂ったようにもがくが、フェザーの歯は肉に深く食いこんでいる。巨龍の全身から発する高熱にあぶられ、白い羽根がちりちりと焦《こ》げてゆく。 「た……助けてくれ!」 「慈悲《じひ》などかけない」噛みついていない七つの口で、フェザーは冷酷に宣言した。「お前のやったことは死に値する」 「そ、そんな……!」 「地上に長く暮らしていれば、�堕落《だらく》�する機会はいくらでもあったはずだ! 魂《たましい》の内からの声に耳を傾《かたむ》けなかったのがお前の罪だ!」  そう言うと、フェザーの七本の首が七方向に動きはじめた。 「うわああ……っ!」  Bの悲鳴がぷつりと途切れた。  三〇メートル下の駐車場——  赤い液体がにわか雨のように降ったかと思うと、一台の車のボンネットの上に、丸太のようなものがどさりと落下した。それを目にした者がいたとしても、瞬時に正体を見極められたはずがない。その肉塊《にっかい》には、動物の特徴《とくちょう》を示唆《しさ》する突起がまったくなかったからだ——腕も脚も首も翼も。  続いて、原型を留めていない七つのパーツがばらばらと落下し、さらに無数の白い羽根が雪のように舞い落ちてきた。 「何ということだ……」  五〇〇メートル離れた西友の屋上からその戦いを見ていたMは、思わぬ事態の展開に愕然となっていた。全身に数百の眼を持つ彼には、双眼鏡など必要ない。Bの前に現われた敵の姿は、間近で観察するようにはっきりと見えていた。  フェザーがただ者ではないという予感はしていた。だが、選《よ》りにも選って最悪の相手だったとは……。  Bを助けるチャンスはなかった。携帯《けいたい》電話で呼び戻そうとしたのだが、間に合わなかった。彼は命令た反した軽率な行動のために自滅したのだ。Bの生命が失われたのは惜《お》しくはないが、フェザーにこちらの正体を嗅《か》ぎつけられたのが痛い。  今すぐフェザーを始末しなくてはならない。だが、戦力を逐次《ちくじ》投入しても、返り討ちに遭《あ》うのは目に見えている。だからあえてBは見殺しにしたのだ。奴《やつ》と一戦交えるには、この地区の全戦力を結集する必要がある。  あのすさまじい破壊力。いかにM——大天使メタトロンといえども、一対一で戦うには危険すぎる相手だ。 「私だ」彼は携帯電話に向かって言った。 「全員に伝えろ。バラキエルがやられた。敵はアザゼルだ」 [#改ページ]    4 黙示録の真実 <どうしよう!? 摩耶ちゃんが見つからないんだよーっ!>  かなたが泣きながら <うさぎの穴> に電話をかけてきたのは、爆発《ばくはつ》が起きてから一五分以上|経《た》ってからだった。取り乱した声に混じって、人のざわめきや消防車のサイレンが聞こえる。 「落ち着きなさい!」松五郎は娘を叱《しか》りつけた。「状況はどうなってるんだ!?」 <よ……よく分かんないよ。火事はひどくなるばっかりだし、野次馬がいっぱい集まってきて、現場に近づけないし……> 「文ちゃんは?」 <だめだ……と思う> かなたの声は沈んだ。 <店は完全に火に包まれてて……あれじゃ、たぶん……> 「分かった。お前はどこかに隠れて、目立つ行動を取らないようにしなさい」 <だって……!> 「敵がまだそのへんにいるかもしれないんだぞ! 文ちゃんだけじゃなく、お前まで失ったら、私は……」 <分かった……> かなたはしぶしぶ承諾《しょうだく》した。 <姿は変えとくよ> 「これからすぐそっちに行く。落ち合う場所は後で伝えるから」 <うん……>  松五郎は電話を切ると、緊迫《きんぱく》した表情で一同に向き直った。 「……聞いた通りだ」 「行こう!」  流が立ち上がり、走るように出口に向かった。霧香、教腰、松五郎もそれに続く。大樹だけが連絡係として店に残った。  小さなエレベーターは四人も乗ると窮屈《きゅうくつ》だった。降りる速度がやけに遅く感じられる。 「……最悪の予想が的中したようね」  霧香が暗い声でつぶやくと、教授は憤慨《ふんがい》した。 「当たっても嬉《うれ》しくはないですよ!」 「あ……痛!」  意識を取り戻して最初に感じたのは、左手の激しい痛みだった。 「手が!?」  左手を見下ろした摩耶はショックを受けた。鋭《するど》い刃物で切断されたように、手首から先が消え去っており、コーラのボトルを傾けたように、黒っぽい厚い液体がどくどくと流れ落ちている。あたりが暗かったのは幸いだ。明るかったら、鮮やかな赤い色が草の上に広がってゆくのが見えたことだろう。  摩耶は悲鳴を上げそうになった。 「心配はいらない」  フェザーは背後から優しく腕を回して彼女を抱き、パニックを鎮《しず》めた。 「切断面はきれいだ。これならくっつく——少しじっとしていて」  彼は近くに落ちていた手を拾い上げると、プラモデルでも組み立てるかのようなさり気なさで、少女の手首の切断面にくっつけた。男の指先から暖かい力が放射されると、ゆっくりと傷がふさがり、出血が止まってゆく。  落ち着きを取り戻そうと、あたりを見回した。彼女は背後からフェザーに抱かれ、草むらの上に座らされていた。周囲には松の樹が生えており、茂みの向こうに街灯に照らされた石のベンチが見える。どこかの公園の森のようだが、よく知っている井の頭公園ではなさそうだ。しんと静まりかえり、人の気配はまったくない。  黒い樹々の向こうに、六角形の屋根がある小さな塔《とう》のシルエットが見えたので、摩耶はようやくこの場所に思い当たった。中野区松が丘にある哲学堂《てつがくどう》公園——明治三七年、「妖怪《ようかい》博士」と呼ばれた井上《いのうえ》円了《えんりょう》が、自らの思想を具現化するために建設した施設《しせつ》である。迷路のようになった道には、「経験坂」「独断峡」「真理界」「常識門」といった名前が付いており、そこを歩き回ることによって、円了の思想が学べる仕掛《しか》けになっている。  しかし、吉祥寺からほ東に八キロも離れているはずだ。いつの間にこんなに移動したのだろう……?  意識が明瞭《めいりょう》になってくるにつれ、ばらばらになっていた記憶《きおく》がジグソーパズルのように再構成されていった。そう、確かかなたといっしょに <稀文堂> を訪ねたのだった。そこで大きな爆発が……。 「かなた!」  摩耶は叫《さけ》んだ。反射的に立ち上がろうとするが、フェザーの力強い腕に引き戻される。まだ治療《ちりょう》が終わっていないのだ。 「君の友達なら無事だ」フェザーは優しく言った。「そのはずだ。爆発が起きた時、ずっと離れた場所にいたはずだからな」 「じゃあ……文子さんは?」 「彼女は……」彼は少し言い淀《よど》んだ。「……助けられなかった」 「ああ……!」 「君を助けるのが遅れて済まない。あの炎の中で、逃げ遅れた人を何人か助けていたもので、君まで手が回らなかったんだ。火が回るのが早くて、とても全部は救えなかった……」  摩耶は自分な抱きしめているフェザーの腕が、ぐっと堅くなるのを感じた。爆発しそうな怒りを抑えているのだ。 「……この借りは必ず返してやる」 「あ……」  突然、摩耶は自分が裸《はだか》同然の格好であることに気づき、狼狽《ろうばい》した。ワンピースがずたずたに裂《さ》けてしまっているのだ。隠そうにも、太い腕で背後から抱かれているうえ、治療を受けている間は動けない。どうにか自由な右手を動かし、ワンピースの残骸《ざんがい》をかき集めて胸許《むなもと》を押さえる。 「済まないな。敵に包囲されそうになって、君を抱いて大急ぎで逃げ出したもんで、服にまで気が回らなかった」フェザーは笑った。「ま、これぐらいの役得は認めてくれ」  そう言う彼は全裸だった。最初の爆発で衣服が吹き飛んでしまったのだ。  摩耶はすっかりどぎまぎしてしまった。頭の中がかっと熱くなり、まともな思考力を失ってしまう。私、裸の男の人に抱かれている……。 「あ……あの……でも……」 「男に見られるのは初めてか?」  摩耶は消え入りそうな声で言った。「……見ないでください」 「劣等感を抱くことなんてない」彼女の心を読んだかのように、フェザーは言った。「君はきれいだ。自分の美しさは、もっと誇《ほこ》っていいんだぜ」 「…………」  摩耶は沈黙《ちんもく》した。もう何と答えていいのか分からない。  やがて左手は完全に接合した。最初は少し痺《しび》れたような感じがしたが、血液が血管を満たすにつれ、感覚が戻ってきた。指も自由に動かせる。皮膚の表面にわずかに傷跡が残っていて、手首をぐるりと一周しているが、太目の腕時計をすれば隠せるだろう。少し頭がぼんやりとして全身がだるく感じられるのは、大量の血液を失ったせいだろうか。 「さて」治療が終わると、フェザーはおもむろに切り出した。「君の名前は?」 「摩耶——守崎摩耶です」 「マヤ。さっそくだが、君にやってほしいことがある」  彼は草むらの上に放り出されていた携帯電話を取り上げた。摩耶に手渡す直前、表面に付着した血痕《けっこん》をさりげなく拭《ふ》い取《と》る。それでもボタンの隙間《すきま》に汚れがこびり付いているのを、摩耶は目ざとく見つけた。  彼女はピンときた。これはあの天使が持っていた携帯だ……。 「これで <うさぎの穴> に連絡してくれ」 「え?」 「俺は <うさぎの穴> の電話番号を知らない。俺があの店で資料を調べて、陰謀《いんぼう》の証拠をつかみしだい、文子が <うさぎの穴> に取り次いでくれるはずだった。だが、それはもうできない。インターネットに接続しようにも、持ってきたノートパソコンは、財布やカードといっしょに燃えちまった。今はこの電話だけが頼りなんだ」 「……どうしてあなたがかけないんですか?」摩耶は当然の疑問を口にした。「あなたに知り合いはいないんですか?」 「ニューヨークにはいる。東海岸やヨーロッパにも何人か……しかし、海外を経由していては時間がかかるし、情報の信頼度も下がる。一刻も早く、 <うさぎの穴> を通して、この国のネットワークに真実を広める必要があるんだ」 「でも……何を話せばいいんですか?」 「君が見たものをだ」フェザーは真正面から真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しで彼女を見つめた。「誰《だれ》があの爆発を——そして、これまでの一連の事件を仕組んだのかを」 「でも……」 「頼む。一刻を争うんだ。連中はほぼ間違いなく、ディスインフォメーションを流してくるだろう。今度の事件は悪魔のしわざだ。 <ザ・ビースト> が日本妖怪の壊滅を目論《もくろ》んで攻撃を仕掛けてきたんだ……ってな。それを打ち消さなくちゃならない」 「でも……」 「さあ、かけてくれ」  フェザーに急《せ》ぎ立てられ、摩耶は震《ふる》える指で携帯の通話ボタンを押した。 <うさぎの穴> の電話番号をプッシュしようとする——だが、最初の「03」を入れたところで、その指はぴたりと止まった。 「どうした?」 「分からない……」摩耶は天使の血が付いた携帯電話を見下ろし、つぶやいた。「分からないんです……」 「何がだ?」 「何もかもです」  彼女は顔を上げ、助けを求めるようにフェザーの顔を見つめた。 「どうして……どうしてあいつは天使みたいな姿をしていたんですか?」 「天使だからさ」  フェザーはそっけなく答えた。 「だって……だって天使が……」 「天使が人を殺すはずがない、か? 君は『ヨハネの黙示録』を読んだことはないのか?」 「……あります」 「そこにどんなことが書いてあった?」  摩耶は答えられなかった。『黙示録』の内容を思い出せないからではない。はっきりと覚えているからこそ、反論できないのだ。  それは今から一九〇〇年前、紀元前一世紀後半に書かれた文書で、エーゲ海のパトモス島にいたヨハネという人物(イエス・キリストの弟子のヨハネではない)が、自分の見た幻《まぼろし》を報告するという内容である。ヨハネはイエスに導かれて天に昇《のぼ》り、世界の終末を目撃する。神が天使に命じ、世界に大破壊をもたらすのだ。  その前兆は、戦争、不況、災害である。小羊(イエス)によって封印《ふういん》が解かれると、神の玉座の周囲に座っている四つの生き物、いわゆるケルビム(智《ち》天使)が、四人の天使を地上に派遣《はけん》する。白い馬に乗った天使は弓をもっており、帝国主義的|侵略者《しんりゃくしゃ》の象徴《しょうちょう》とされている。赤い馬に乗った天使は剣《つるぎ》を持っており、地上から平和を奪い、人間たちに殺し合いをさせる権限を与えられる。黒い馬に乗った天使は秤《はかり》を持っており、ケルビムに「小麦は一コイニクスで一デナリオン、大麦は三コイニクスで一デナリオン」と命じられる。一デナリオンは当時の労働者の一日分の収入で、それでわずか一コイニクス(一・一リットル)の小麦しか買えないほど物価を高騰《こうとう》させよという意味である。青白い馬に乗った天使の名は「死」と言い、剣と飢饉《ききん》と疫病《えきびょう》と野獣《やじゅう》によって人間たちを殺す権限を与えられる。  地上には地震が起こる。月が血のように赤くなり、天から星が落ちて、人々は恐怖《きょうふ》する。だが、それらはさらなるカタストロフのほんの序章にすぎない。小羊が七番目の封印を解くと、いよいよ本格的な破壊が開始される。  第一の天使がラッパを吹くと、血の混じった雹《ひょう》と火が降ってきて、地上の樹々の三分の一が焼け、すべての青草が焼ける。第二の天使がラッパを吹くと、大きな燃えている山のようなものが海に落ちてきて、海の生物の三分の一が死に、船という船の三分の一が破壊される。第三の天使がラッパを吹くと、燃えている大きな星が川という川の三分の一の水源に落ち、水が苦くなって大勢の人が死ぬ。第四の天使がラッパを吹くと、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損われ、地上は暗くなる。第五の天使がラッパを吹くと、底なしの穴から蝗《いなご》の怪物が無数に出現し、尾にある針で人間たちを刺して、激痛で五か月間も苦しめる。第六の天使がラッパを吹くと、ユーフラテス川のほとりにつながれていた四人の天使が、人間の三分の一を殺すために解放される。天使が率いる二億の騎兵《きへい》は、獅子《しし》の頭を持つ馬にまたがっており、その口から吐く炎と煙《けむり》と硫黄《いおう》によって人間たちを虐殺《ぎゃくさつ》する。  生き残った人間たちも、天使の残虐な殺戮《さつりく》からは逃れられない。鋭《するど》い鎌を持った天使が、その鎌を地上に投げ入れ、葡萄《ぶどう》を刈り取るように人間たちを切り裂く。その死体は大きな搾《しぼ》り桶《おけ》に入れられ、踏《ふ》みしだかれる。桶からあふれ出た血は馬のくつわに届く高さになり、一六〇〇スタディオン(約三〇〇キロ)にわたって広がる。  七人の天使が金の鉢《はち》を傾け、その中身を地上に注ぐと、さらに大規模な災厄《さいやく》が襲う。人々の皮膚に悪性の腫《は》れ物ができる。海や川の生物は死滅する。太陽の炎が人々を焼く。かつて起きたこともない規模の大地震《だいじしん》が都市を襲う。すべての島は沈没《ちんぼつ》し、山々は消え失せ、一タラントン(三四キロ)もある雹《ひょう》が地上に降り注ぐ。国王から奴隷《どれい》にいたるまで、あらゆる階級の人間が殺される。 『わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会《だいえんかい》に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ」……』  こうして、神に従うひと握《にぎ》りの人間を除き、人類は死滅する。 「それが天使のやろうとしていることだ」  フェザーは口調には深い嫌悪がこもっていた。 「地球|環境《かんきょう》を徹底的《てっていてき》に破壊して、文明を崩壊《ほうかい》させ、六〇億の人類の大半を死滅させる——その計画を遂行《すいこう》するために、彼らは地上に現われた」 「そんな……」 「本当だ。彼らは力が強いし、数も多い。ひとたび計画が発動すれば、おしまいだ。人類は決して天使に勝てない」  摩耶はまた反論できなかった。『黙示録』に書かれている通りなら、天使の数は「万の数万倍、千の数千倍」のはずだ。 「だが、希望はある。俺たちのような超常的《ちょうじょうてき》存在——この国では『ヨウカイ』と呼ぶそうだが——が世界各地にいる。俺たちが力を結集すれば、天使の軍団に勝てる可能性がある。だから連中は、事前に俺たちの力を削《そ》ごうと企《たくら》んでるんだ」 「それで文子さんが……?」 「そうだ。連中は世界各地で妖怪《ようかい》を殺してほ、それが <ザ・ビースト> のしわざだというデマを流している。一方では、 <ザ・ビースト> の幹部を暗殺して、妖怪たちの攻撃《こうげき》のように見せかけている。 <ザ・ビースト> とそれ以外の妖怪との間に全面戦争を勃発《ぼっぱつ》させて、共倒《ともだお》れさせようって腹だろう……。  さあ、分かったら電話をかけてくれるか?」  それでもなお、摩耶はためらっていた。  天使と戦う——それは神の意志に逆らうということだ。信仰を捨てる上いうことだ。神が邪悪《じゃあく》な存在であると認めるということだ。そんな決断が簡単に下せるはずがなかった。 「……証拠はあるんですか?」 「ん?」 「あなたの言ってることが正しいという証拠はあるんですか?」 「天使を見ただろう?」 「確かに見ました。でも、本当かどうか確信が持てません。みんなあなたが見せた幻かもしれない。あの爆発もあなたが仕組んだことなのかもしれない。私を騙《だま》して、偽《にせ》の情報を流させようとしているのかもしれない。あなたこそ本当は悪魔《あくま》なのかも……」 「俺は悪魔さ」  摩耶は心臓が止まりそうなショックを受けた。 「そう、俺はいわゆる悪魔だ。堕天使《だてんし》ってやつさ。本当の名前はアザゼル」 「アザゼル……」  摩耶はその名前に聞き覚えがあった。オカルト雑誌の特集で取り上げられたことがある。本来は天使の階級の最上位であるセラフィム(熾《しょく》天使)であったが、神に反逆して、他の二〇〇人の堕天使とともに地上に下ったという。『黙示録』に登場する七つの頭を持つ赤い龍《りゅう》、すなわちサタンは、アザゼルがモデルだとも言われている。  おそらくは数千年も生きてきた伝説の大悪魔——それが今、目の前にいる。 「じゃ、 <ザ・ビースト> ……?」 「違う」アザゼルはきっぱりと言った。「連中は俺よりずっと後、紀元四世紀にようやく誕生した。昔の堕天使仲間の中には <ザ・ビースト> に入った奴《やつ》もいるが、大半は俺みたいにフリーだ。もっとも、さすがに印象が悪いんで、正体は隠《かく》してることが多いがな。  俺が自分で電話できない理由が分かるだろう? 自分の正体を明かさずに『天使が攻めてくる!』って叫んだところで、それこそデマだと思われるだけだ。かと言って、正体を明かせば、さらに厄介なことになる。だから君に頼むんだ。君の口から、みんなに真相を説明してやってほしい」 「……悪魔の言葉に従えっていうんですか?」 「そうだ」 「そんなこと、できるわけないでしょう!?」  エアザゼルは苛立《いらだ》った。「君を騙すつもりなら、悪魔だと名乗ったりするものか!」 「でも……」 「いいか、俺は君の心を操ることもできる。その能力もあるんだ。だが、それはしない。今は君の信頼を得ることが何よりも重要だと思っているからだ」 「……どうしてそんなに誠実なんですか? 悪魔なのに?」  少女の素朴《そぼく》すぎる疑問に、アザゼルは苦笑した。 「世界の運命がかかってるんだ。誠実にもなろうってもんさ」 「ふざけないでください!」 「すまない」彼はすぐに真顔になった。「だがな、これは俺にとっては利己的で打算ずくの選択《せんたく》なんだ。君を騙したことが後で発覚したら、俺は信頼を失う。そうなったら俺の警告は無視され、事態が手後れになる危険がある。結果は世界の破滅だ。俺にとっては断じて好ましいことじゃない——美しい娘たちが世界からいなくなるのはな」  摩耶はどうにか乱れる心を整理し、論理的に考えてみようとした。アザゼルの言うことは確かに筋が通っているように見える——しかし、矛盾《むじゅん》がないことと、正しいこととは、また別問題だ。 「……私、悪魔に騙されていた人を知っています」彼女はつぶやいた。「悪魔が人を騙すのが得意で、卑怯《ひきょう》な手段を好むことも……」 「それはおおむね事実だな」 「なのに、私に悪魔の言うことを信じろと?」 「信じてもらわないと困る。世界を滅ぼしたくはないだろう?」 「だって……」 「世界が滅びれば君も死ぬ。君の大切な人たちもみんな死ぬ。生まれたばかりの赤《あか》ん坊《ぼう》、罪のない子供たち、獣《けもの》や鳥や魚、森の樹々や花、生き物という生き物はすべて……」 「ああ!」  摩耶は両手で顔を覆《おお》った。様々な恐怖が渦《うず》を巻き、精神の平衡《へいこう》が失われる寸前だった。世界が滅びることへの恐怖。悪魔に対する恐怖。自分の選択に世界の運命がかかっていることへの恐怖。信仰が崩れ去ることへの恐怖……それぞれ異なる方向に作用する残酷《ざんこく》なベクトルのはざまで、彼女の繊細な心は引き裂かれようとしていた。  耐《た》え切れなくなり、摩耶はくすくすと笑い出した。笑いながらすすり泣いた。叫《さけ》び出したい気分だった。私にこんな途方もない選択をさせるなんて、ひどすぎる……。 「つらいだろう」  アザゼルは彼女の肩に手を回し、深い哀《かな》しみと同情をこめて抱き寄せた。 「すまない。非常時でなければ、君にこんな重荷は負わせないんだが……」  男の熱い腕に抱かれているうち、少し落ち着きを取り戻した。涙が止まり、笑いの発作が治まる。アザゼルに対する恐怖は不思議と消えていた。お互いに裸であることにも、すでにこだわりはなく、ごく自然なことのように感じられた。悪魔の誘惑にはまりかけていることに、心の中のクリスチャンの部分は強い反発を示していたが、同時に、どこまでも堕《お》ちてみたいという危険な欲望も抱いていた。 「もう少し……話してください」 「何を?」 「神様のこと! 納得できないんです。どうして神様がそんな……そんなひどいことをなさるんですか?」 「ノアの洪水《こうずい》を起こしたのは誰だ? ソドムとゴモラを滅ぼしたのは? エジプトに災厄を起こしたのは? 何の罪もないヨブの財産を奪い、子供たちを殺し、彼をひどい皮膚病で苦しめたのは?」 「だって、あれは……」 「そう、ただの物語だ。旧約聖書に書かれていることのほとんどは、聖書以外の資料から裏付けられていない。天地創造もノアの洪水もなかったことは、地質学によって立証されている。モーセがイスラエル人を連れてエジプトを脱出したとされる時期、エジプトに大きな災厄が起きたという記録はまったくない。ソドムとゴモラの遺跡も発見されていない……だが、事実かどうかは問題じゃない。何億という人間がそれを事実だと信じている。神は人間を平然と虐殺《ぎゃくさつ》する存在だと——それが問題なんだ。  君は知っているな? 妖怪がどうやって生まれてくるか?」 「……ええ」摩耶はためらいながらうなずいた。「人間が妖怪の存在を信じるから……」 「そうだ。信じる人間が多く、信じる心が強ければ強いほど、妖怪の力も強くなる。一九九〇年に行なわれたギャロップ世論調査では、アメリカ人の約半数、十代の若者の四分の三が天使の実在を信じているという結果が出た。一億人以上だな。だから天使が強い力を持っているのも不思議じゃない。  無論、�神�も同じだ。ファンダメンタリスト——聖書に書かれたことはすべて事実だと信じる人間は、アメリカだけでも三〇〇〇万人いると言われている。全世界では何億という数だろう。ファンダメンタリストでなくても、神の実在を確信している人間は多い。よって、�神�は実在する——ここまではいいか?」  摩耶は返事をしなかった。  神は妖怪の一種なのではないか。神が人類を創造したのではなく、人類が神を創造したのではないか——それは何年も前から心の中に秘めてきた疑惑である。だが、それを口に出すことはしなかった。かなたたちに訊《たず》ねたりもしなかった。それはあまりにも冒涜的《ぼうとくてき》で、受け入れがたい考えだったからだ。  その迷いを、アザゼルはあっさりと打ち砕いてしまった。 「終末思想——この世界がいつか神によって滅ぼされるという考えには、長い歴史がある。一説によれば、紀元前一四〇〇年頃にゾロアスターによって考案されたんだそうだが、まあ、さすがに俺の生まれる前の話だし、本当のところは謎《なぞ》だ。ユダヤ教徒はゾロアスター教の思想を取り入れて『ダニエル書』を書いたのだと言われている。  しかし、ユダヤ教にせよゾロアスター教にせよ、当時の少ない世界人口の中の、さらにマイナーなグループにすぎなかった。まだ多神教全盛の時代だったからな。だから、彼らがいくら『まもなく世界が終わる』と信じたところで、それが現実になるはずがなかった。彼らの信念から生まれた�神�は、他のたくさんの神々に比べてたいした力はなくて、世界を滅ぼすなんて不可能だったんだ。  ところが、二〇〇〇年前、一人の男が現われたことで、すべては変わった。彼の生きている間は、彼のグループも一地方のごく小規模なカルトにすぎなかった。しかし、彼の死後、信者たちが熱心に彼の言葉を広めた——『神の国の到来は近い』と。  彼自身は、世界の終わりがどんな風に訪れるか、明確に語ってみせたわけじゃない。だが、彼の死後半世紀ほどして、とてつもなく想像力豊かな男が現われた。そいつは『ダニエル書』などの記述を参考にして、世界の破滅の詳細《しょうさい》なビジョンを描《えが》き出した。その文書はやがて信者の間に広まり、具体的なイメージとなって定着していった。それが……」 「『ヨハネの黙示録』……?」 「そうだ」  歴史学者の検証によれば、『ヨハネの黙示録』が書かれたのは、ローマ皇帝ドミティアヌスの治世、おそらく西暦九五年前後だとされている。  もっとも、著者《ちょしゃ》ヨハネは執筆《しっぴつ》の際にちょっとしたトリックを用いている。実際より約二五年前、ウェスパシアヌスの治世(六九—七九年)に書かれたものであるかのように装ったのだ。その後の二五年間の出来事を内容に盛りこむことで、あたかも預言が的中したかのように見せかけようとしたのだ。  その証拠は第一七章にある。七つの頭と一〇本の角を持つ�獣�が登場するくだりだ。その背中には、額に「大バビロン」と書かれた着飾った女がまたがっている。それが象徴《しょうちょう》するものを、天使は次のようにヨハネに説明する。 『……七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる。五人は既《すで》に倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は、まだ現われていないが、この王が現われても、位にとどまるのはごく短い期間だけである。以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる。また、あなたが見た十本の角は、十人の王である。彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間、獣と共に王の権威《けんい》を受けるであろう……』  ローマが七つの丘の上に建設された街であることは有名で、七つの頭の怪物に乗った「大バビロン」がローマの象徴であること、七人の王というのが歴代のローマ皇帝のことであるのは疑いようがない。  当時、キリスト教徒はローマ帝国から激しい迫害を受けていた。特に第五代皇帝ネロによる弾圧は有名だ。ネロはキリスト教徒を闘技場《とうぎじょう》に集め、大勢の観衆の前でライオンに食い殺させたのである。ヨハネがローマ皇帝を「獣《けもの》」と呼んで嫌悪し、帝国の滅亡を切実に願うのは当然のことだった。  王の数が七人であると同時に一〇人であるというのは矛盾しているように思えるが、実は理屈に合っている。ネロの死後、ローマ帝国は後継者をめぐって分裂《ぶんれつ》し、同時に四人の皇帝が擁立《ようりつ》された時期があるのだ。彼らはまさに「国を治めていないが、ひとときの間」だけ王だったのである。その中から選ばれて正式に第六代皇帝になったのがウェスパシアヌスで、一〇年間の統治の後、その息子のティトゥスが後を継いだ。つまりティトゥスは、第七代皇帝であると同時に、一〇人目の皇帝でもあるわけだ。また、ティトゥスの在位期間はたった二年で、まだ現われていない七番目の王が「位にとどまるのはごく短い期間だけである」という記述に一致する。  第八代皇帝となったのは、ティトゥスの弟のドミティアヌスである。彼は自らを「主にして神」と呼ばせて崇拝《すうはい》させるような傲慢《ごうまん》な男だった。小アジアのエフェソという都市の中心には、高さ七メートル半もあるドミティアヌスの像が建てられた。この像には不思議な力があり、託宣《たくせん》を行なうと信じられていた。皇帝を神として崇拝する教団もあり、信者たちは額や手に皇帝を賛美する入れ墨《ずみ》をしていた。キリスト教徒は皇帝崇拝を拒否したため、商業活動を制限され、迫害され、あるいは処刑された。  ヨハネは現在進行中のそうした出来事を、二五年前に神から託された預言という形で描写してみせた。二本の角を持つ第二の獣(偽預言者)が現われ、第一の獣(皇帝)の像を造るよう命じる。この像は言葉を喋《しゃべ》り、これを拝まない者はみな殺される。人々はすべて右手か額に刻印を押され、その刻印のない者は物を買うことも売ることも許されない。その刻印とは、獣の名、あるいはその数字である。 『……賢《かしこ》い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である』  ヘブライ文字は、文字のひとつひとつに数字が割り当てられている。「皇帝ネロ」はヘブライ語では「QSRNRWN」である。Q=一〇〇、S=六〇、R=二〇〇、N=五〇、W=六なので、合計すると六六六になる。ヨハネは自分たちを弾圧するドミティアヌスをネロの再来と考えていた。だから「第八の者」が「先の七人の中の一人」と書いたのだ。  ヨハネの意図は明白である。迫害に苦しむキリスト教徒たちに、すべてが神によって定められたシナリオ通りであると思いこませ、神の国の到来も予定通りに起きると訴《うった》えたのだ。  もっとも彼は、世界の終末とイエスの再臨《さいりん》がほんの数年後、おそらくドミティアヌスの生きている間に起きると思っていたようだ。それは「見よ、わたしはすぐに来る」というフレーズからも明らかである。実際には、九六年にドミティアヌスは暗殺されたが、ローマ帝国はその後なお何世紀も健在であった。  後に続く何千人もの終末予言者たちと同様、ヨハネの予言もまたはずれたのである。  摩耶は困惑していた。 「……私の知っている話とずいぶん違います」 「君の知っているのはどんな話だ?」 「ええと……」  彼女は返答に困った。愛読していたオカルト雑誌には、そんなまともな解釈《かいしゃく》が紹介されたことはない。『黙示録』は二〇世紀末に起きる核戦争や小惑星《しょうわくせい》衝突の予言だと書かれていた。七つの頭の獣とは「闇《やみ》の世界政府」のことだとか、獣の数字というのはバーコードのことだとか、ヨハネの正体は未来人だとか……。 「疑うなら、歴史書でも何でも調べてみればいい。これが真実だ。だから当時は <ザ・ビースト> もまだ生まれていなかった。一世紀末の人間にしてみれば、�獣�がローマ皇帝の比喩《ひゆ》だってのは明白だったからな」 「でも、みんなだんだん本当の意味を忘れていった……?」 「ああ。その点じゃ、ノストラダムスの予言と似たようなもんだな」  よく知った名前が出てきたので、摩耶はびっくりした。「ノストラダムス?」 「そうさ。『アンゴルモアの大王』がアングーモワ地方出身のフランソア一世の比喩だってことや、その前後に統治する『マルス』というのがその息子のアンリ二世のことだっていうのは、一六紀のフランス人なら誰《だれ》でもすぐに分かった。ノストラダムスは歴史は循環《じゅんかん》すると考えていた。つまり、二〇世紀末には今と同じような時代がめぐってくると安直に予想したわけだな。そこで『フランソア一世のような王が現われる前か後、アンリ二世のような王が幸福に統治する』という詩を書いたわけだ」 「……どうしてそんなことが断言できるんですか?」 「どうしてって——俺はその頃《ころ》、フランスにいたんだぜ!」アザゼルは苦笑した。「本人に会ったこともある。お菓子《かし》造りの好きな面白い男だったよ。もっとも、予言の才能はなかったな。毎年出版していた『暦《アルマナ》』の中で、その年に起きることをいろいろ予言していたが、ことごとくはずしていた。  しかし、二〇世紀になると、みんなノストラダムスの詩の本来の意味なんか忘れてしまって、好き勝手な解釈をするようになった。核《かく》戦争だの、宇宙人の侵略《しんりゃく》だの、小惑星の落下だの、土星探査機カッシーニだの——おかげで、どれだけ苦労させられたことか」 「苦労?」 「そうとも。去年、恐怖の大王が降りてこなかったのは、誰のおかげだと思ってるんだ?」  笑っていいのかどうか、摩耶には分からなかった。 「もっとも、恐怖の大王なんて、ほんの小者にすぎない。ノストラダムスの予言を信じていたのは、大半が日本人とフランス人で、その他のいくつかの国に信者が少しずついたぐらいだ。だから力もたいしたことはなかった。しかし、�神�は違う。今や全世界の何十億という人間が熱烈《ねつれつ》に信じている。パワーが桁《けた》違いだ」 「……勝てるんですか?」 「分からないな」アザゼルはため息をついた。「前の時よりはるかに力をつけているだろうから……」 「前の時?」 「不思議に思わないか? これほど大勢の人が、�神�による最後の審判《しんぱん》の日が近いうちに来るとずっと信じてきたのに、それはまだ起きていない——どうしてだと思う?」 「……分かりません」 「�神�は死んだからだ」 「え?」 「�神�は死んだんだ。俺たちが殺した——西暦五三六年に」  西暦三一三年、キリスト教はローマ帝国に公認され、さらにはローマ帝国の支配地域全土に広がっていった。そうなると、もう�獣�がローマ皇帝だという解釈は許されなくなった。自分たちを保護してくれている国家を悪しざまに言うわけにはいかないし、その頃にはドミティアヌスの時代の迫害の記憶も薄れていたからだ。  いっそ時代遅れの『黙示録《もくしろく》』など捨ててしまうべきだったのだろう。だが、預言がはずれたという明白な事実を教会は認めたがらなかった。彼らは『黙示録』はまだ起きていない未来の出来事の描写《びょうしゃ》だという苦しい解釈をするようになり、�獣�は比喩ではなく文字通り存在すると信じられるようになった。  そして生まれたのが <ザ・ビースト> だ。キリスト教以前には、いわゆる悪魔という概念《がいねん》は一般的ではなかった。悪魔の存在を信じる者が爆発的《ばくはつてき》に増えたことにより、悪魔が実際に次々と誕生したのだ。以前からいたアザゼルのような堕天使《だてんし》たちも、人々の信念に支えられ、いっそう強い力を有するようになった。 「世界の終わりは近い」——そう確信する者の数は年ごとに増えていった。問題はそれがいつかということだ。紀元二世紀にはすでに、この世界は神が創造してから六〇〇〇年目に終わるという思想が広まっていた。三世紀のローマの神学者ヒッポリュトスは、聖書に出てくるたくさんの数字を足したり引いたりして、世界が創造されたのはイエス誕生の五五〇〇年前だと唱《とな》えた。彼の説は広く認められた。ということは、世界の終わりは西暦五〇〇年頃ということになる。もっとも、当時はまだ「キリスト紀元」という概念はなく、その年が正確にいつであるかは誰にも分からなかった。  西暦三九五年、ローマ帝国は東西に分裂《ぶんれつ》。それから一世紀も経《た》たないうちに西ローマ帝国は滅亡した。多くのキリスト教徒は『黙示録』の一節を思い出したに違いない。 『倒れた。大バビロンが倒れた』  栄華を極めたローマ帝国の衰退《すいたい》にともない、各地で大規模な戦乱が起こり、物価は高騰《こうとう》した。飢饉《ききん》や疫病《えきびょう》、災害も続発し、人々の不安をかきたてた。それらはまさに世界の終わりの予兆と受け取られたのだ。この時期、反キリストの到来を告げる予言者が何人も出現し、各地で騒ぎがあったと記録に残っている。何千万という人間が、『黙示録』の時代がついに到来したと確信したのだ。  そして西暦五二六年、充分に力をたくわえた�神�と天使の軍団は、世界を破壊するために行動を起こした。  最初に血祭りに上げられたのは、シリアのアンティオキアという街だった。キリスト昇天祭《しょうてんさい》を翌日に控《ひか》えて賑《にぎ》わっていた五月二九日午後六時、大規模な地震《じしん》が起きて多数の建物が倒壊《とうかい》し、数千人が圧死した。その直後、全市が火災に見舞われた。それがただの火事ではなかったことは、「空から雨の代わりに火が降ってきた」という生存者の証言から分かる。火災は何日も燃え続け、全市を灰と化し、二五万人の生命を奪った。  天使軍団の暴虐《ぼうぎゃく》を食い止めるため、ヨーロッパ、エジプト、中東、さらにインドや中国からも、神や妖怪《ようかい》たちが集まってきた。ゼウスやアテナを筆頭とするギリシャ神群、バアルに率いられたカナーン神群、ホルスやアヌビスなどのエジプト神群、ペルシャのデーヴァ、インドのヴリトラやカーリー、中国の龍族……さらに天使から堕落《だらく》したアザゼルのような悪魔たちや、『黙示録』から生まれたばかりの <ザ・ビースト> も加わり、砂漠《さばく》や海や空を舞台に、想像を絶する大戦争を繰り広げた。  激しい戦闘《せんとう》は一〇年も続き、双方に多大な死傷者が出た。古い神の中には、この戦いで消滅してしまった者も多い。しかし五三六年、ついに妖怪たちの連合軍は天使軍の防御陣《ぼうぎょじん》を打ち破り、彼らの本拠地である神の国、ニュー・エルサレムに攻めこんだ。そこはこの世界の外に存在する異空間——日本で言うところの�隠《かく》れ里�であった。  ここでもさらにすさまじい戦いが繰り広げられたが、何百という妖怪たちの集中攻撃を浴び、さしもの�神�も倒れた。妖怪たちは�神�の巨体を原子にまで粉砕し、天使たちを殺戮《さつりく》し、ニュー・エルサレムを破壊し尽《つ》くした。それでも安心はできなかった。人が存在を信じ続けるかぎり、�神�は何度でも復活してくるだろう。  戦いで生き残った多くの神々が力を合わせ、�神�や天使たちに呪《のろ》いをかけた。二度と復活してはならない。地上に姿を現わしてはならない。時の果てる日まで、形のない原子となって虚空《こくう》を漂《ただよ》い続けるべし……。  それ以来、一四六四年間、地上には�神�のいない時代が続いている。 「俺たちは安心していた」アザゼルは言った。「呪いはとてつもなく強力で、絶対に破られるはずがないと信じていた。世界の終わりはもう来ないと——だが、連中は俺たちの知らない間に復活していた。おそらく、『西暦二〇〇〇年に世界は終わる』と信じる人間が増えすぎたからだろう。それで�神�にかけた呪いが破られた……」  摩耶は激しいショックを受けていた。神は死んでいた? この一四世紀の間、神はいなかった? それなら、世界中の何億という人たちは、いもしないものに対して祈《いの》っていたというのか……?  考えをまとめるのに時間がかかった。できればすべて否定したかった。悪魔《あくま》の言うことなんて信じられない。そんなのはみんな嘘《うそ》っぱちだと——そう言い切れれば、どんなにか楽だっただろう。  しかし、アザゼルの語る物語には、不快なまでの説得力があった。 「その話に証拠は?」 「今、ここにはない」アザセルは正直に答えた。「しかし、この国にも一五〇〇歳以上の妖怪《ようかい》が何人かいるはずだ。彼らに訊《き》けば昔のことを教えてくれるだろう。あと、天使がひそかに復活していることを示す証拠なら、 <稀文堂> にたくさんあったんだが、全部燃えちまったからな……」 「あなたの読んでいた本ですか?」 「そうだ」 「どうして戦争や災害の本が証拠になるんです? みんな天使のやったことだと……」 「すべてじゃないさ。第二次世界大戦は、明らかに違う。今世紀のほとんどの戦争もそうだ。ホロコーストにしても、当時のドイツ国民が抱いていた偏見《へんけん》が、ヒトラーという男によって火をつけられただけのことだ——みんな人間がやったことだ」  摩耶はぞくっとなった。アザゼルの口調は静かだったが、その表情には暗い憎悪《ぞうお》がみなぎっていた。 「天使どもはそうした戦争や災害《さいがい》の背後で、俺たちに気づかれることなく、ひっそりと活動を続けていた。おそらく今世紀の前半には復活していたんだろう。西暦二〇〇〇年のハルマゲドンに向けて、慎重《しんちょう》に下準備を進めていたんだ。  疑惑を抱いたきっかけは、去年からニューヨーク州とその周辺で続発している子供の失踪《しっそう》事件だった。もっとも、そうした事件自体はアメリカじゃよくあることだ。毎年、何万人という子供が消え、その多くは二度と現われない。変質者の犠牲《ぎせい》になったり、チャイルド・ポルノに売られたり——あるいは妖怪に食い殺されたり」  摩耶は震《ふる》え上がった。太平洋を隔《へだ》てたお隣りの国で、テレビや映画でよく知っていると思っていたが、ずいぶん世情が違う。日本では子供が一人|誘拐《ゆうかい》されただけでも大ニュースになるのだが。 「ところが、去年の夏|頃《ごろ》から、統計にちょっとした異変が起きた。消えた子供たちの性別の比率が変化していることが分かったんだ。少年の失踪が急増している。 <Xヒューマーズ> が調査に乗り出したところ、どの事件もきわめて不可解な状況で消えていることが分かった。妖怪がからんでいる疑いが濃厚だった。最初は <ザ・ビースト> を疑った。あいつらの中には、子供をいたぶるのが好きな奴《やつ》や、子供の肉が好物って奴も多いしな——しかし、調査範囲を広げてみると、これがニューヨーク周辺だけじゃないってことが分かってきた。中部や西海岸でも男の子の失踪が急増していた。南米やインド、中東、東南アジアでも……。  過去の事例にまで手を広げて調べているうち、偶然《ぐうぜん》、シュトライヒャーの証言にぶち当たった。今から五五年も前、ホロコーストの影に隠《かく》れて、二万人以上の男の子が消えていたんだ。もっと詳《くわ》しく知ろうと、俺はベルリンにまで足を伸ばしたが、すでにシュトライヒャーは何者かに口を封《ふう》じられていた……」 「それで <稀文堂> に?」 「そうだ。文子のおかげでシュトライヒャーの失われた原稿を読むことができたし、関連する資料もたくさん見つけた。一九六二年のイラン大地震、七〇年代のウガンダのアミン政権下での大量|虐殺《ぎゃくさつ》、八〇年代のエチオピアの大|飢饉《ききん》……この半世紀、世界各地で起きた戦争や災害、虐殺事件の背後で、男の子ばかりが消えている。何十万もの人間が殺されている時に、一〇〇〇人や二〇〇〇人の子供が消えても、たいして注目を集めないからな。それに迷宮入りした誘拐事件もたくさんある。正確な数は分からないが、俺の概算《がいさん》では、世界各地で消えた子供は、この半世紀で年平均一〇〇〇人——ホロコーストの際に消えた二万人を加えれば、七万人以上だろう」 「七万人!?」 「ああ。だが、それでもまだ足らない。それで連中、ペースを速めだしたんだ。二〇〇〇年の末までに頭数を揃《そろ》えるために……」 「頭数……?」 「一四万四〇〇〇人」 「あ……!」  摩耶は頭の中が真っ白になった。その数字には覚えがある。『黙示録』一四章の冒頭《ぼうとう》部分が鮮明によみがえった。 『また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四〇〇〇人の者がいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた……彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞《どうてい》だからである……』 「そう、連中は童貞の少年を集めている」アザゼルは怒りを抑えきれないようだった。「一五〇〇年前もそうだった。連中は天災や戦争に便乗して、男の子ばかりを大量に誘拐した。女と交わったことのない少年——彼らだけが額に神の刻印を捺《お》され、神の国に入ることを許される。残りの全人類は……」 「そんな……!」摩耶はすっかりうろたえていた。「だって、その一四万四〇〇〇人はみんなイスラエル人のはずじゃ……?」  『黙示録』によれば、一四万四〇〇〇人はイスラエルの一二支族の中から一万二〇〇〇人ずつ選ばれるはずである。 「まあ、確かに『黙示録』にはそう書いてあるな。それで連中も最初はユダヤ人の子供を狙《ねら》ったんだろう。だが、ユダヤ人だけ選んで誘拐するのは難しい。だからその点については拡大解釈することにしたんだろう。  それに、『黙示録』にはこうも書いてある。『見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆』と——そもそも、イスラエルの一二支族のうちの一〇支族は行方《ゆくえ》が分からないんだから、一四万四〇〇〇人のうちの一二万人はユダヤ人以外から選ぶしかないわけだ。それに、自分たちこそイスラエルの失われた支族の末裔《まつえい》だという信仰は、世界各地に存在する。インド、アフリカ、アメリカ、中国……日本にだってあるだろう?」 「ええ……」  日本人はイスラエル人の子孫だという説を、オカルト雑誌で読んだことがある。もちろん、日本人の容貌《ようぼう》を見ただけで、ありえないと分かる話なのだが、なぜか昔から多くの日本人がその説を唱《とな》えてきた。 「つまり、世界中どの民族の子供でも、一二万人のうちに含《ふく》まれる資格はあるわけだ」 「でも……どうして……なぜそんなことを?」 「人類をすべて滅ぼすわけにはいかないからさ。妖怪《ようかい》は人間の信じる心がなければ存在できない。�神�や天使たちも同じだ。地上から人間がいなくなれば、やがて彼らの力は弱まり、何千年もすれば消滅してしまうだろう。だから自分たちを崇拝《すうはい》する人間を、少なくとも万単位で生かしておく必要がある……」 「だって……だって、男ばかりじゃ子孫ができないじゃないですか!?」 「子孫を造る必要はない。神の国——ニュー・エルサレムに入った者は、永遠に年を取ることなく生き続ける。病気もないし、苦悩もない……」 「じゃあ、誘拐された子供たちは……?」 「とっくにニュー・エルサレムに連れて行かれてるだろう」 「……助けられないんですか?」 「残念だが、手後れだな」アザゼルはため息をついた。「ニュー・エルサレムに入った者は、まず最初に知能を破壊される」 「知能を?」 「アダムが知恵の木の実を食べて堕落《だらく》する前の状態に戻されるんだ。肉欲は失われる。哀《かな》しみや怒りといった否定的な感情も奪われる。だから自分たちの両親や友人が天使に虐殺《ぎゃくさつ》されても、何の感情も覚えない。何ひとつ悩むことなく、幸福な気分で微笑《ほほえ》み続ける。彼らにできることはただ、�神�を讃《たた》える歌を歌うことだけだ。  そうなったら、俺たち悪魔《あくま》や妖怪も存在できない。生き残った一四万四〇〇〇人の子供たちは、�神�や天使だけを崇拝して、それ以外の存在を信じることがなくなるからな。地球は未来|永劫《えいごう》まで完全に�神�のものになるわけだ……。  これで俺の知っていることは全部話した——どうだ? これでもまだ、連中のやろうとしていることが正しいと思うか?」  摩耶の心はすっかりアザゼルの主張に傾《かたむ》いていた。とりわけ衝撃的《しょうげきてき》だったのは、天使たちの計画が実現すれば妖怪たちも消滅するという点だった。  妖怪は死なない。肉体を破壊されても、それは仮の死にすぎない。人間たちの想いがあるかぎり、必ずまたよみがえってくる。だから文子も死んだわけではない。一時的に地上から姿を消しているだけで、いつかきっと帰ってくる……。  人間がいるかぎり。  摩耶は動揺《どうよう》した。女子と別れる瞬間《しゅんかん》、この夜の出来事は決して忘れないと心に誓《ちか》った。彼女のことを覚えているかぎり、きっとまた会えると信じていた。しかし、自分が死んでしまったら——そして、全世界の本を愛する人々がみんな死んでしまったら、文子はもう復活できないのだ。  文子だけではない。かなたも、流も、霧香も……彼女の愛する者たちはみんな、永遠に忘れ去られ、失われてしまうのだ。そんなことは耐《た》えられない。  だが、それでもまだ、彼女は心を決めかねていた。 「……ひとつだけ教えてください」 「ん?」 「どうして天使をやめたんですか? 愛欲に溺《おぼ》れたからだというのは本当ですか?」  アザゼルは苦笑した。「それはまたプライベートな質問だな」 「……すみません」 「いや、いい。その伝説は本当だ。俺は天使でありながら、一人の娘を愛した。紀元前四世紀のアレキサンドリアで……」  二五〇〇年も生きてきた悪魔のくせに、彼は妙にはにかんでいた。 「学者の娘だった。頭が良くて優しかった。俺はすっかりメロメロになっちまった。だが、天使は人を愛することを禁じられている。だから俺は反逆した……」 「その女の人は……?」 「とっくに死んださ。当たり前だろう? 寿命《じゅみょう》が違いすぎる……」  彼はそう言うと小さなため息をつき、木の葉の合間から覗《のぞ》く星空を見上げた。哀しい目だ、と摩耶は思った。 「それ以来二三〇〇年、星の数ほども女を愛してきた。女はいい。女を愛している間は、爆発《ばくはつ》を抑えていられる……」 「爆発?」 「時おり、無性にこの世界を滅ぼしたくなる。いろいろなものを見てきたからな。ネロがキリスト教徒にタールを塗《ぬ》りつけて火をつけ、松明《たいまつ》代わりにするのを見た。ずっと後には、今度はキリスト教徒たちが、何の罪もない女や子供を�魔女�と呼んで焼き殺した。十字軍が暴徒と化して掠奪《りゃくだつ》を繰《く》り広げるのも見た。黒人|奴隷《どれい》が帆船《はんせん》にぎゅうぎゅうに詰めこまれて新大陸に運ばれるのも。聖バルテルミーの前夜、パリの街路がユグノー教徒の血で染まるのも。その二〇〇年後、今度は貴族や聖職者たちが首を斬《き》られるのも。セポイの乱。南北戦争。ボーア戦争。太平天国の乱。二つの世界大戦。ロスの人種暴動。ベトナム……」 「…………」 「文明は進歩したが、人間はいつまで経っても愚《おろ》かだ。この何千年間、飽《あ》きもせずに愚行《ぐこう》を繰り返している。だから�神�の計画は正しい。こんな汚れた世界なんか、とっとと滅ぼしてしまえばいい……何百回、何千回、そう思ったか分からない」 「でも、そうしなかった……?」 「ああ」  彼は摩耶に向き直った。闇《やみ》よりもさらに深く黒い瞳《ひとみ》で、彼女を見つめる。 「娘たちがいる。いつの時代にも、世界のどこかに必ず一人、かわいらしくて、純真で、心優しい娘が——だから俺は世界を滅ぼせない」 「……今は?」 「ん?」 「今は誰《だれ》かいるんですか?」  アザゼルは静かにかぶりを振った。「いや」  その瞬間、摩耶は唐突《とうとつ》に自分の感情に気がついた。私はこの人に恋《こい》をしている——恐ろしい悪魔に恋をしている。  恐怖《きょうふ》は感じなかった。それどころか、心は不思議なほどに平静だった。考えてみれば、これが私の望んでいたことだったのではないか。黒い夢魔が出現し、私を誘惑《ゆうわく》したのも、それこそが私の欲望だったからではないか。まるで、この夜、この瞬間、こうして悪魔と恋に落ちることが、ずっと前から定められていたような気がする……。  運命というものはある、と摩耶は確信した。 「分かりました。あなたを信じます。だから……」 「だから?」 「……私を堕落させてくれますか?」  アザゼルは優しく微笑んだ。 「喜んで」  摩耶は目蓋《まぶた》を閉じ、そっと唇《くちびる》を突き出した。もはやためらいはなかった。男の腕が背中に回されるのを、男の指が優しく髪を愛撫《あいぶ》するのを、夢の中の出来事のように感じていた。  悪魔の唇は熱く、心地よかった。 [#改ページ]    5 滅びの夜  東京都渋谷区・ <うさぎの穴> ——  二〇〇〇年六月一日・午後一一時五六分(日本時間)—— 「どうなってんだよ、大樹!?」  それが <うさぎの穴> に戻ってきた流の第一声だった。かなた、霧香、教授、松五郎も、後からぞろぞろと店に入ってくる。みんな暗い顔をしていた。  火災現場周辺で一時間以上も摩耶を捜索《そうさく》したが、手がかりはなかった。霧香の過去視能力なら、 <稀文堂> の焼け跡で透視《とうし》を行なえば何か分かったはずだが、あいにくと火災はまだ鎮火《ちんか》しておらず、付近は消防隊員や野次馬でごった返している状態で、とても近寄れない。やむなく戻ってきたのだ。 「何度も電話してるのにぜんぜん通じなくて——トラブルでも起きたのかと思ったぞ」 「トラブルと言えばトラブルだな」大樹は深刻な顔をしていた。「それも最悪かも」 「と言うと?」 「君たちが出てった直後から、関東全域で電話が通じなくなってる。携帯《けいたい》だけじゃなく、有線も——ニュースでもさっきからやってるよ」  大樹はつけっ放しにしているテレビを親指で示した。画面右下に <関東全域で電波障害> という文字が浮かび、アナウンサーが何か喋《しゃべ》っているが、ノイズがひどくて聞き取りづらい。画面にも虹色《にじいろ》の横縞《よこじま》のノイズが生じており、それが周期的に強まったり弱まったりして、何も見えなくなることもある。 「どういうことだ?」 「科学的にこじつければ、太陽黒点の異常によるデリンジャー現象——ってとこなんだろうけど、電離層が乱されてるなら、テレビのVHF波帯より携帯に使われているマイクロ波帯の方が妨害の方がひどいってのは不自然だ。それに、携帯はまだしも、普通の電話のケーブルはほとんど地下を通ってるから、影響は受けにくいはずなんだが……」 「攻撃の前段階……ですか」教授は神妙な顔つきで腕組みをした。「我々《われわれ》を他のネットワークから切り離すために……」 「その可能性は大ですね。ボリビアの <トラベスーラ> の時も、地震《じしん》の直前に電話回線が不通になったそうですし……」 「おい! 落ち着いてる場合かよ!?」流は声を張り上げた。「いつ地震が起きるか分からないってことじゃないか!?」 「取り乱したって状況がましになるわけじゃないだろ?」大樹は言い返した。「こういう非常事態だからこそ冷静さが——」 「限度ってもんがあらあ!」  流はそう言うと、大樹に背を向け、出口に向かおうとした。慌《あわ》ててかなたが止める。 「どこ行くのよ、流くん!?」 「家!」流は怒鳴《どな》った。「おふくろが心配だ」  流は中国の龍族とのハーフで、母親は日本人女性である。二人の家は蒲田《かまた》にある。 「待って」と霧香。「出てはまずいわ」  流がノブに手をかけたまま振り返る。「どうしてです!?」 「敵の目的が <うさぎの穴> 壊滅だとしたら、たぶんすでにこの店は包囲されてる……」 「だったらなおさら、じっとしてちゃまずいでしょう!? このままやられるのを待てって言うんですか?」 「出て行ったらそれこそ標的になるだけよ」 「だったらどうするんです!?」 「それは……」  霧香は答えられなかった。今、この瞬間《しゅんかん》にも、正体不明の敵が総攻撃《そうこうげき》をかけてくるかもしれないのだ。この <うさぎの穴> は見えない異空間にあるとはいえ、鉄壁《てっぺき》の要塞《ようさい》とは言い難《がた》い。ビルの土台を崩《くず》されたら、どうにもなるまい。 「ねえ、父さん……」かなたが不安そうに松五郎に訊《たず》ねた。「もしこのビルの四階から下が崩れたらどうなんの? この階だけこの空間に取り残される? それともいっしょに地上に落っこちる……?」 「さあね……分からんよ」  松五郎は素直に答えた。彼は店の主人ではあるが、この店を作ったわけではない。昭和二〇年代、当時の都市伝説から生まれたこの空間を発見し、利用するようになっただけだ。性質まで知りつくしているわけではない。 「打って出るのも危険、迎え撃《う》つにも戟力不足……ですな」教授はうなった。「外部に応援《おうえん》も呼べないときている」 「八環《やたまき》さんや未亜子《みあこ》さんがいてくれたらねえ……」 「それは言わない約束でしょ」 「その点について」大樹は得意そうに眼鏡《めがね》をずり上げた。「実はひとつだけ、明るいニュースがあるんですが……」  東京都文京区・JR水道橋駅付近——  二〇〇〇年六月二日・午前〇時六分(日本時間)——  灰色の雲がちぎれ飛ぶ東京の夜空。駅の近くの二四時間営業のコーヒーショップの前に立ち、後楽園ゆうえんちのタワーの頂部に明滅する赤い航空《こうくう》標識と見上げながら、メタトロンは陰鬱《いんうつ》な気分だった。アザゼルの出現からすでに二時間。さすがに自分が大失態を演じたことを認めざるを得なくなっている。  この二時間、アザゼルは女を連れて東京都内を転々と逃げ回っていた。皐初は中野区の哲学堂公園にひそんでいるのを発見した。次は池袋の繁華街。さらに千駄木《せんだぎ》の霊園《れいえん》でちょっとした戦闘《せんとう》があり、つい一五分前には上野駅前……追跡させている下級天使からの報告が入るたびに包囲網《ほういもう》を敷《し》こうとするのだが、その都度、するりと逃げられる。アザゼルは狡猾《こうかつ》であるうえ、元天使だけあって、他の天使の手の内も知りつくしている。メタトロンは完全に手玉に取られている格好だ。  上野から浅草方面に逃げると見せかけて、渋谷の方向へ反転したところを、ようやく追い詰めた。現在はこの水道橋の近く、駅から半径五〇〇メートル以内に潜伏《せんぷく》しているようだが、正確な場所はまだ分からない。何キロも向こうまで見通し、隠《かく》れたものをも見抜くメタトロンの千里眼にも、限界というものがある。アザゼルが人間の姿でいる間は、妖怪《ようかい》特有のオーラを完全に隠蔽《いんぺい》していられるのだ。人の多い場所にまぎれこまれると、発見するのに時間がかかる。いまいましいことに、この腐った街ときたら、真夜中を過ぎても人や車であふれているのだ。  さらに厄介《やっかい》なのは、自ら命じた通信|封鎖《ふうさ》だ。電磁波《でんじは》を操る能力を持つ天使たちが都内各所に散り、主要な電話回線および携帯《けいたい》電話用アンテナに妨害《ぼうがい》をかけ、猛烈《もうれつ》なノイズを発生させている。アザゼルや <うさぎの穴> の連中が関東以外のネットワークに情報を流すのを妨《さまた》げる目的だが、おかげで天使たちも携帯電話が使えなくなっていた。テレパシーが使える者もいるが、アザゼルに傍受《ぼうじゅ》される危険がある。結局、特にスピードの速い天使たちが飛び回って、伝令の役目を果たすしかなかった。  こんな状況は長くは維持《いじ》できない。通信封鎖を永遠に続けるわけにはいかないし、飛び回っている天使を目撃《もくげき》される危険もある。妖怪はもちろん、人間の中にも、ごく稀《まれ》に見えないはずのものが見える体質の者がいるのだ。自分たちが活動していることを知られるのはまずい。だからこそ、これまで警戒《けいかい》して大都市の空を飛ばず、人間たちと同様にタクシーや地下鉄を利用する不便な生活を何年も送ってきたのだ。  メタトロンは腹を立てていた。バラキエルの軽率な行動がすべてを台無しにしてしまった。彼を止められなかったのが、返すがえすも悔まれる。  いや、すでに死んでしまった者を責めてもしかたがない。問題はこの失態をどう埋《う》め合わせるかだ……。 「M」  伝令役の下級天使が二人、音もなく舞い降りてきた。メタトロンの両脇《りょうわき》にふわりと着地すると、翼《つばさ》を畳《たた》み、舗道《ほどう》に膝《ひざ》をつく。無論、その姿は通行人には見えない。 「ウガンダのチームが到着しました」  メタトロンは少し機嫌が良くなった。それこそ、彼の待ち望んでいたニュースである。 「今どこだ?」  彼は夜空を見上げ、一人言のように言った。 「|R《アール》は所定の位置に。他の者は第三チームに合流しています」  関東一円から呼び寄せた三四人の天使を、メタトロンは三つのチームに分けていた。ひとつは自分とともにアザゼルを追跡するチームで、腕利きを揃《そろ》えている。ひとつは東京全域に散らばって通信妨害を実行するチーム。もうひとつは <うさぎの穴> を包囲し、壊滅させるためのチームで、これは戦力的にやや不安があったのだが、ウガンダから来たチームが加われば安心だ。 「 <うさぎの穴> の連中は?」 「吉祥寺に出かけていた四人が、もう一人と合流。一〇分前に店に戻ってきました」 「他のネットワークと接触した形跡は?」 「今のところはまだ」  メタトロンはさらに機嫌が良くなった。 <うさぎの穴> の主要メンバーには以前から探りを入れており、現在、店の中にいる六人については、いずれも思考転送や瞬間《しゅんかん》移動の能力はないことはほぼ確実と見られている。電話が不通で、なおかつ物理的に接触もしていないとなると、まだ東京の外に情報が洩《も》れていない可能性が高い。  店に集まっている今なら、一気に潰《つぶ》せる。 「監視《かんし》に気づかれてはいないな?」 「はい」 「よし、それでは——」彼は腕時計を見た。「〇時一七分に発動させろ。もし連中が店から出ようとしたら、それ以前に攻撃を開始してもかまわん。一人も逃がすな」 「はい」  一礼すると、二人の天使は翼を広げ、二方向に分かれてさっと飛び去った。  メタトロンはほくそ笑んだ。作戦発動と同時に、海外のネットワークには「 <ザ・ビースト> が東京壊滅計画を実行」というディスインフォメーションを流す手筈《てはず》になっている。たとえ情報コントロールに失敗したとしても、邪魔《じゃま》な妖怪どもの数を少しでも減らすことで、将来の手間が省けるわけだから、実行する価値はある。無論、何万という都民も道連れだが、たいしたことではない。  どのみち、今年の末までに六〇億人を殺さなくてはならないのだから。  東京都文京区・後楽園ゆうえんち——  同日・午前〇時一四分(日本時間)—— 「ふん!」  アザゼルのパンチの一撃で、清涼飲料水の自動販売機に穴が開いた。金属板を紙のようにねじ曲げて中を手探りし、百円|硬貨《こうか》を数枚つかみ出す。 「ほらよ」  渡された硬貨を握《にぎ》りしめ、摩耶は近くの公衆電話に走った。破れたワンピースは捨て、男物のポロシャツとスラックスという活動的な格好に着替えていた。逃げる途中、池袋のデパートのウインドウを破って失敬したもので、ちょっとサイズが合わないのはしかたがない。非常時だし、これぐらいの犯罪は許してもらえるだろう。  摩耶が電話をかけている間、アザゼルは周囲に油断なく監視の目を向けていた。昼間は楽しい騒音にあふれている遊園地も、今は人影もなく、静まりかえっている。照明の消えたフライングカーペットやツインハリケーンは、華やかさが失われ、石油|掘削《くっさく》機械か何かのように見えた。近くにある野外劇場の入口には黒いマスクをかぶった五人のヒーローの勇姿が描《えが》かれ、夜空には恐竜《きょうりゅう》の骨格標本を思わせるジェットコースターの軌道《きどう》がそそり立っている。 「だめです」  摩耶は泣きそうな顔で振り返った。受話器からはガリガリというノイズしか聞こえない。 「やっぱりな」  予想していたことなので、アザゼルはたいして落胆《らくたん》はしなかった。哲学堂公園から携帯電話をかけようとして、電波が妨害されていると気づいた時から、公衆電話もどうせだめだろうと思っていた。摩耶に電話をかけさせたのは、彼女がどうしても <うさぎの穴> の状況を知りたがったからだ。 「となると、東京から出るしかないか……」 「でも、 <うさぎの穴> が……」 「分かってる」  この通信妨害は大規模な攻撃《こうげき》の前兆である可能性が高い。天使たちは <うさぎの穴> に情報が洩れたと信じ、口封《くちふう》じを企んでいるのだろう。いや、すでに攻撃を受けているかもしれない。 「だからと言って、うかつに助けに行くわけにもいかないだろう」 「だって……」 「言っただろう? 俺たちを追跡してる連中はかなりの精鋭《せいえい》だ。あいつらを引き連れて <うさぎの穴> に行ったら、状況はかえって不利になりかねない。彼らを信じろ」 「だって……!」  摩耶は唇《くちびる》を噛《か》み、悔しがった。 <うさぎの穴> の妖怪《ようかい》たちの強さはよく知っているが、おそらくは何十人という敵、それも目に見えない敵に攻撃されて、無事でいられる保証はない。いくら振り払おうとしても、かなたや流たちが炎の中で悲鳴を上げて苦しんでいるイメージが頭から離れない。彼らを助けに行けない自分が腹立たしい。 「これでも飲むか?」  気をまぎらわせようと、アザゼルは缶ビールを差し出した。千駄木で追っ手とちょっとした戦闘《せんとう》をやらかした際、どざくさまぎれにコンビニの前の自動販売機を壊し、四本ほどくすねてきたのだ。上野のホテルの空き部屋に忍びこんでリングプルを開けたのだが、飲み干す前にまた追っ手が現われた。残ったのはこの一本だけだ。  摩耶はかぶりを振った。「未成年ですから」 「そりゃないだろ」  アザゼルは噴き出しそうになった。悪魔《あくま》の愛人になることを決意した娘が、「お酒は二〇歳になってから」という標語を律義に守るというのも変な話だ。  だが、摩耶の顔が怒りと悔しさと苦悩に歪《ゆが》んでいるのを見ると、彼は笑えなくなった。真剣《しんけん》に生きている女は美しいが、悩んでいる女を見るのは我慢《がまん》ならない。美しい女は微笑むべきなのだ。  夜空にそそり立つコースターの軌道を見上げ、アザゼルはため息をついた。この遊園地も昼間来れば、きっと楽しい場所なのだろう……。 「そんなに彼らのことが心配か?」 「当たり前です!」摩耶は涙《なみだ》がぼろぼろとこぼれるのを止められなかった。「みんな……みんな私の大切な友達なんです! みんなに危険が迫っているのに、私だけ逃げ回ってばかりいるなんて……耐《た》えられません!」 「分かった分かった、もういい」  アザゼルは手を上げ、彼女の言葉をさえぎった。悪魔として、純粋に戦略的に見れば、今は世界に情報を流すことが最優先課題であり、そのためには <うさぎの穴> など見捨てるべきなのだ。名前もろくに知らない妖怪たちの運命など、知ったことではない——だが、この人間の娘がそうさせてくれない。  女の涙——とりわけ純粋で心優しい少女の涙は、堕天使《だてんし》にとって原爆よりも威力《いりょく》がある。 「オーケイ。助けに行こう」  摩耶の表情がぱっと輝いた。「本当ですか?」 「ああ。その代わり、君も覚悟を決めろよ」 「覚悟?」 「まず、俺たちを追跡している部隊を片付ける。それから <うさぎの穴> に救援《きゅうえん》に向かう。激しい戦いになるぞ。君をかばっている余裕はないかもしれない。自分の身は自分で守れ」  摩耶はうなずいた。「分かっています」 「特に!」アザゼルは彼女の鼻先に指を突きつけた。「とっ捕まって人質になるようなへマだけは勘弁《かんべん》してくれ。『この女の生命が惜しければ……』っていう例のパターンだ。そのせいでこれまで何度ひどい目に遭《あ》ったことか」 「分かりました」摩耶はもう一度、いっそう強くうなずいた。「人質になってあなたをピンチにするぐらいなら、いっそ死にます」 「それも困るんだがな……」  アザゼルは顔をしかめ、頭をかいた。 「ん?」  彼は足許《あしもと》を見下ろした。足の裏にかすかに震動《しんどう》が感じられる。  カタカタカタカタ……。  摩耶ははっとして頭上を見上げた。ジェットコースターの軌道が音を立てている。地面の震動に反応し、揺《ゆ》れているのだ。  アザゼルは舌打ちした。 「くそ……はじめやがったか!」  時計の長針は一七分を指していた。  東京都渋谷区・道玄坂一丁目——  同日・午前〇時一六分(日本時間)—— 「そろそろだな……」  第三チームを率いる天使サハクィエルは、駅前に完成したばかりの渋谷エクセルホテル東急の屋上から地上を見渡し、自信たっぷりにうなずいた。  ウガンダから来たチームも合流し、総勢二四人になった天使は、完全に <うさぎの穴> を包囲していた。店の北側、この渋谷エクセルホテルと、隣の渋谷マークシティの屋上に各三人ずつ、甲冑《かっちゅう》を着て鎌や槍《やり》で武装した天使が待機している。東側の東急プラザの屋上にも三人。南側の高速三号渋谷線の高架《こうか》の上にも、人間の目には見えないが、六人が並んで待機している。  その他にも、入り組んだ道玄坂の路地のあちこちや、ビルの上、ラブホテルの看板の背後などに、姿を消した天使たちが翼《つばさ》を畳《たた》んでひそんでいた。  サハクィエルもそうだが、天使の中には透視《とうし》能力を持つ者もいる。さすがに異空間に属している <うさぎの穴> の内部までは見えないが、妖怪が店から逃げ出そうとすれば、たとえ地中に潜《もぐ》ろうが、姿を変えようが、容易に見破ることができる。  単純に数だけ見ても四倍の戦力差がある。一匹も逃がしはしない。  彼は腕時計を見下ろした。時刻が「00:17」に変わった。 「時間だ……」  東京湾《とうきょうわん》上——  同日・午前〇時一七分(日本時間)——  東京ディズニーランドの沖合《おきあい》二キロ。今夜はほとんど風もなく、黒い海面は穏やかで、湾岸に並ぶホテルの灯を反射して静かにきらめいていた。この時刻にはフェリーも通らないし、ホテルに宿泊している者たちも自分たちの楽しみに夢中で、ろくに夜景など眺《なが》めてはいない。たとえ窓の外を見ていた者がいたとしても、特別な視覚を持たないかぎり、破滅をもたらす天使がひっそりと海面に舞い降りるところを目にすることはできなかっただろう。  それは普通の天使よりもひと回り大きかった。六枚の大きな翼をゆっくりと優雅《ゆうが》にはばたかせ、海面から五メートルの空中に浮遊していた。  ラシエルー地震《じしん》を司《つかさど》る天使である。  時間が来た。ラシエルが特殊《とくしゅ》な震動波を下向きに放射しはじめると、海面にさざ波が広がった。ビームのように放射された震動波は、海水をあっさり透過し、厚さ何キロもある地層をも空気のように貫通して、地下深くへと浸透《しんとう》していった。  複雑なプレート運動によって絶えず変形を続けている日本列島には、多数の危険な活断層が分布している。そのうちのひとつはこの東京湾にある。東京の江東《こうとう》区と対岸の千葉市を結ぶ線上、海底を北西から南東へと走る東京湾北部断層だ。関東地方の地下に潜りこもうとするフィリピン海プレートが、日本列島の東半分を載《の》せたオホーツク・プレートを押し続けているため、大地がずれ、逆断層を生じているのである。調査は進んでいないものの、一八五五年の安政江戸地震(M六・九)を起こしたのはこの活断層ではないかと言われている。  ラシエルの震動波はその活断層の深部の北西端で焦点《しょうてん》を結んだ。そこは天使たちが何年も前に探り当てていた地点で、関東一帯の地盤《じばん》を支えている支柱とでも呼ぶべき筒所《かしょ》だった。前回の地震から一世紀半、再び充分に圧力が高まっていた断層面は、その刺激によって最後のひと押しを加えられ、ガラスのように砕けた。  トリガーが引かれた。断層の破壊によって生じた衝撃《しょうげき》は、近くの断層面を揺さぶり、破壊した。東京湾の直下を走る活断層に沿って、不吉な轟音《ごうおん》とともに、致命的《ちめいてき》な破壊が連鎖《れんさ》反応的に進行していった。一世紀半の間に生じていた無数の小さな亀裂《きれつ》が次々に合体し、巨大な亀裂に成長してゆく。  断層面の静止|摩擦《まさつ》力が減少し、プレート間の巨大な圧力に耐えられなくなった。逆断層の東側が束縛《そくばく》から解放され、一気に二メートルも持ち上がった。  東京都江東区・京葉線|新木場《しんきば》駅前——  駅ビルのガラスがびりびりと震えた。ビルの屋上をねぐらにしていたカラスたちが異変を察知し、ぱっと飛び立つ。  大地のかすかな震えを最初に感じた人間は、おそらく段ボールの家に寝転がっていた初老のホームレスだったろう。彼はもぞもぞと身体《からだ》を動かしたが、どこかで工事でもしてるんだろうとしか思わなかった。  バス停の標識が震動に共鳴し、メトロノームのように揺れはじめた。ほどなく、巨象の群れの暴走を思わせる不気味な地鳴りが、深夜の街路に響き渡った。大量の帯電エアロゾルが地中から放出され、東京の夜空を赤く染めた。  千葉県|浦安《うらやす》市—— 「何か飲むゥ?」  東京湾を見下ろすTDLオフィシャルホテルの豪華《ごうか》な一室。お楽しみを終えたばかりの若いカップルがくつろいでいた。男はベッドで横になっており、女は部屋に備えつけのガウンだけを羽織《はお》って、冷蔵庫の中のドリンク類を物色している。  初期|微動《びどう》がはじまった。 「あー、地震……」  女は天井のシャンデリアを見上げ、ぼんやりとつぶやいた。関東では地震など珍《めずら》しくもない。いちいち驚いてなどいられない……。  次の瞬間《しゅんかん》、S波が到達《とうたつ》した。巨人の手ではたかれたように、部屋全体が大きく横に揺れた。  女はひっくり返り、男はベッドの端《はし》から転げ落ちた。シャンデリアが派手《はで》に振り回され、テレビが台から吹き飛ばされた。クローゼットの扉《とびら》が開き、ハンガーがばらばらと飛び出してきた。  電気が消え、室内は真っ暗になった。女は絶叫《ぜっきょう》した。  彼女の上げた悲鳴は、その瞬間、東京湾北部沿岸で発せられた何百という悲鳴のひとつにすぎなかった。音速の何倍もの速さで震動域が拡大するにつれ、悲鳴の大合唱《だいがっしょう》は東京および千葉全域へ、さらに周辺の他府県へと広がり、何千、何万、何十万という数に膨《ふく》れ上がっていった。大地の揺《ゆ》れる音、コンクリートの砕ける音、瓦《かわら》の落ちる音、家具が倒れる音がそれに重なり、恐怖《きょうふ》の交響曲を奏でた。  もしこの時、衛星|軌道《きどう》から夜の関東地方を見下ろしていた者がいたとしたら、ダイヤモンドで織られた蜘蛛《くも》の巣のように美しくきらめいていた東京湾岸の一画に、ぽっかりと黒い染みが生まれたのを目にしたはずである。その染みはたちまち癌細胞《がんさいぼう》のように増殖《ぞうしょく》し、街の灯を食い潰《つぶ》していった。被害の拡大とともに停電も広がり、ほんの一分足らずで、東京都の東半分と千葉県の西半分、神奈川県、埼玉県、茨城県の一部が闇《やみ》に呑《の》みこまれた。震源から半径六〇キロにわたる広範囲《こうはんい》で、人工の光がすべて失われ、地震に伴《ともな》うオーロラのような発光現象がそれに取って代わった。  マグニチュード七・一。のちに「第二次関東大震災」とか「東京湾直下地震」と呼ばれることになる大地震が発生したのだ。  東京都港区・六本木——  八階建ての雑居ビルの一階、二四時間営業の喫茶店《きっさてん》の店内でくつろいでいた客と従業員たちは、一瞬《いっしゅん》にして恐怖のどん底に叩《たた》きこまれた。激しい揺れのため、逃げることはおろか、立ち上がることもできない。何人かは、小学校時代に避難《ひなん》訓練で教えられたことを思い出し、とっさにテーブルの下にもぐりこんだ。  電気が消えるのとほほ同時に、老朽化《ろうきゅうか》したビルの一階部分の柱が、震動に耐えかねて崩壊《ほうかい》した。二階から八階までが原形を保ったまま、ダルマ落としのように落下した。何百トンというコンクリートに押し潰され、瞬時に二〇人が圧死した。  神奈川県川崎市—— 「やった! やった! ついに来たぞ!」  激しく揺れ続けている安アパートの中、柱にしがみつきながら、子供のようにはしゃいでいる男がいた。夕方、渋谷駅前でビラを配っていた集団の一人だ。 「予言が当たった! 世界の終わりだ! ついに神が——」  彼はその言葉を言い終えることができなかった。  違法建築だったアパートが震動に耐えかねて倒壊《とうかい》し、下敷《したじ》きになったのだ。即死はまぬがれたものの、折れた柱で内臓を貫かれた。それから一時間、彼は必死に神の助けを待ち望みながら、じわじわと死んでゆくことになる。  東京都千代田区・千鳥《ちどり》ケ淵《ふち》——酔《よ》った客を乗せ、都心|環状線《かんじょうせん》を走っていたタクシーの運転手は、路面の異常な揺れを感じて急ブレーキをかけた。後部座席でうとうとしていた客は、はずみで座席からずり落ちた。 「んん〜? もう着いたのか?」  酔っ払いは間の抜けた問いを発した。運転手は答えられなかった。右に左に揺れる車の中で、ハンドルに必死にしがみつき、恐怖に目を見開いて、フロントガラスの外で展開されている信じられない光景を見つめていた。  道路全体が波のように揺れていた。  数秒後、橋桁《はしげた》が落下し、タクシーは二人を乗せたまま、お濠《ほり》の濁《にご》った水の中に転落した。  東京都中央区・月島——  築五年にもならない高層マンションが、土台周辺から土砂の混じった水を激しく噴出しながら、ゆっくりと傾《かたむ》きはじめていた。埋立地《うめたてち》の地面が液状化現象を起こし、マンションの重量を支える力を失ったのだ。  その最上階の一室では、しだいに傾斜《けいしゃ》角を深めてゆく床の上で、泣き叫《さけ》ぶ赤《あか》ん坊《ぼう》を抱え、若い主婦が必死に祈《いの》り続けていた。 「お願い、神様。この子だけはお救いください。神様、神様、神様……!」  その祈りも空しく、数秒後、マンションは完全に倒壊した。  東京都新宿区・歌舞伎《かぶき》町——  地震がおさまって何分かすると、真っ暗になった風俗店や喫茶店から、無事だった人々がぞろぞろと這《は》い出してきた。中には裸《はだか》同然の者もいて、ネオンが消え、すっかり変貌《へんぼう》した街を茫然《ぼうぜん》と見渡していた。  だが、彼らにとって真の恐怖はこれからだった。  歌舞伎町周辺の四|箇所《かしょ》で同時に火の手が上がった。逃げようとした人々は、自分たちが巨大な迷路の中に閉じこめられていることを知った。横倒《よこだお》しになったビルが各所で道路をふさいでいたからだ。出口を求めて右往左往するうち、パニックが発生し、暴走する群衆に踏《ふ》まれて死ぬ者も出た。  女性の悲鳴や、助けを求める声が、街路という街路に響き渡った。だが、それも勢いを増す猛火《もうか》の発する轟音《ごうおん》にかき消されていった。  この夜、この地区だけで、四〇〇人近い焼死者が出ることになる。  阪神《はんしん》大震災の時と同様、多くのビルは崩《くず》れずに残った。入念な耐震《たいしん》設計が施された近代的な高層建築のほとんどは、震度七に耐えた。  東京都庁を筆頭とする西新宿の超高層ビル群はほとんど無傷で、深夜なので人があまりいなかったこともあり、被災者の数は少なかった。池袋のサンシャイン60、霞《かすみ》ケ関《せき》ビル、日比谷《ひびや》の帝国ホテル、芝のNEC本社ビルなども倒れなかった。東京タワーは大きく揺さぶられたが、先端《せんたん》部が共振現象に耐えかねて折れただけだった。レインボーブリッジは路面に亀裂《きれつ》が入った程度だった。東京湾アクアラインは壁面《へきめん》に無数の小さなひび割れを生じたものの、トンネルそのものは最後まで震動に耐えた。  むしろ被害が大きかったのは、小さなビルや、民家、アパートなどである。特に現在の建築基準法を満たさない古い建造物の多くは、地震に対してまったく無力だった。東京二三区の各所、千葉県、神奈川県の広い範囲で、何十万という民家やアパートが倒壊し、すでに眠りについていた人々は逃げる間もなく圧死した。  最初の六〇秒で、二〇〇〇人以上が生命を失った。六〇分後にはこの数は二倍になり、朝までにはさらに数倍に膨《ふく》れ上がることになる。  夜明け近くに起きた阪神大震災と違い、まだ街の中で活動している人が多かったことが被害を拡大した。特に新宿や渋谷などでは、深夜でも営業している料理店や屋台が多く、地震が起きた瞬間、多数のコンロやガスレンジが使われていた。  この夜、東京とその周辺で、同時に一二〇〇件もの火災が発生した。消防車がすぐに出動したが、ビルが倒壊して道路がふさがれた箇所が多いうえ、断水した地域も多く、消火作業はきわめて困難であった。  そして渋谷では—— 「な、何!?」  初期|微動《びどう》がはじまった瞬間、かなたは叫んだ。棚《たな》に並んでいたグラスや酒瓶《さけびん》が震《ふる》え、ちりちりと音を立てる。 「来たか!?」  流はカウンターに身を寄せ、身構えた。他の者も危険を予感し、手近にあったテーブルや柱にしがみつく。  店全体が荒海の中の船のように揺れた。棚からグラスや酒瓶がいっせいに飛び出し、派手な音を立てて砕ける。椅子《いす》やテーブルが床の上を右に左に滑《すべ》った。柱時計がボンボンと鳴りだす。重たいピアノまでも壁に叩《たた》きつけられ、耳ざわりな不協和音を発した。  電気が消え、店内は闇《やみ》に包まれた。  地震発生と同時に、天使たちはいっせいに隠《かく》れ場所から飛び出し、 <うさぎの穴> のある雑居ビルの周囲に殺到《さっとう》した。  金色の甲冑《かっちゅう》に身を包み、鞭《むち》を持った二人のポテンティアテス(能《のう》天使)が、ビルの前に降下した。英語名は「パワーズ」。九つの階級に分かれた天使の第六階級で、一説では神によって最初に創造された天使であり、宇宙の運行を司《つかさど》ると言われている。電子が原子核の周囲を正確に回り続けていられるのも、原子がばらばらにならないのも、ポテンティアテスがコントロールしているからだと。  ポテンティアテスがその気になれば、宇宙の法則を歪《ゆが》めることもできる。元素を自由に他の元素に変換したり、原子の結合を壊して組み替えたりできるのだ。生体を構成する炭素《たんそ》や水素や窒素《ちっそ》を、ナトリウムやカルシウムや珪素《けいそ》に変換すれば、人間はガラスになる。  震動はまだ続いており、周囲のビルからはガラスやタイルやコンクリート片が雨のように降りそそいでいた。通行人たちは逃げることも隠れることもできず、路上にうずくまって震えるばかりだった。震度七では人間は立つこともできないのだ。  人間にはポテンティアテスは見えないし、ポテンティアテスも彼らには見向きもしなかった。姿を消したまま、地上二メートルに浮遊し、二方向から力を集中して、ビルの一階部分を支えている鉄筋とコンクリートを変質させはじめる。鉄は柔《やわ》らかい鉛《なまり》になり、コンクリートは脆《もろ》い岩塩になった。  上からの圧力に耐えかねて、壁《かべ》が爆発《ばくはつ》したように砕け、金属の骨組が露出《ろしゅつ》した。柱は飴《あめ》のようにねじ曲がってゆく。  ビルはゆっくりと傾きはじめた。  真っ暗になった店内では、大きな揺れはおさまったものの、小さな振動はまだ続いていた。下の階から不気味な軋《きし》みや破裂音《はれつおん》が響いてくる。  やがて、ひときわ大きな軋みとともに、また店内が大きく揺れ、テーブルや椅子が東側の壁に向かってずるずると滑りはじめた。床が傾斜しているのだ。 「こ……これは参りましたな!」  壁にぴったりへばりついたまま、教授は真っ青な顔をしていた。土の中で長く暮らしていた彼は、極端《きょくたん》な高所|恐怖症《きょうふしょう》なのだ。このまま十数メートル下の地面に叩《たた》きつけられるなんて、とても耐えられない。 「すみません! お先に!」  そう言うなり、教授の小太りの身体が、床の絨毯《じゅうたん》に溶《と》けこむように沈《しず》みこんだ。物質|透過《とうか》の能力を利用し、下の階に飛び降りたのだ。ほんの三メートル弱の落下とはいえ、彼にとっては死ぬほど恐《おそ》ろしい行為である。それでも五階の高さから落ちるよりはましだ。  傾斜角は二〇度を超《こ》え、さらに傾《かたむ》き続けている。闇の中でカウンターにしがみついて震えながら、かなたはさっきの疑問の解答を知った。ビル全体が倒《たお》れたら、 <うさぎの穴> だけ異空間に残るのか、それともいっしょに倒れるのか……?  答えは後者だ。  店を包囲していた天使たちは、傾きが増すにつれ、ビルの屋上がピントがずれたようにぼやけはじめたのを目にした。やがて屋上は霧《きり》に包まれたようになり、すうっと夜空に向かって伸び上がった。数秒後、ピントが再び合った時には、すでにビルは四階建てではなくなっていた。  完全に実体化すると同時に、傾き続けていたビルは、通りをはさんだ向かい側にある別のビルの壁面に激突した。大音響とともに、破片と土煙《つちけむり》が派手《はで》に舞い散る。  存在しないはずの五階が、ついに姿を現わしたのだ。  激突と同時に、東側の壁は完全に吹き飛んだ。かなたも衝撃《しょうげき》でカウンターから引き剥《は》がされた。三〇度以上も傾斜した床をごろごろと転がってゆく。とっさに絨毯に爪を立て、床の縁《ふち》でぎりぎり転落を食い止めた。  彼女の周囲では、椅子やテーブル、柱時計、灰皿、グラスの破片《はへん》など、固定されていなかったあらゆるものが転がり、壁に生じた巨大な穴から虚空《こくう》に落ちていった。ピアノも悲痛な不協和音を発しながら落下してゆく。  かなたのしがみついている絨毯も、ずるずると滑り落ちようとしていた。松五郎がとっさに大蛸《おおだこ》に変身し、長い触手を伸ばして絨毯の端をつかむ。  ほとんど同時に、天使たちの攻撃が開始された。雹《ひょう》、雷《かみなり》、火炎、突風が、四方八方から <うさぎの穴> に襲いかかる。壁がドラムのように連打され、天井を突き破って火炎が吹きこんでくる。 「流くん!」  霧香が叫ぶ。 「分かってます!」  流はすでに本来の姿——体長四メートルほどの金色の龍《りゅう》に変身していた。その胴体《どうたい》に大樹と霧香がしがみつく。 「行けええええーっ!」  流は最大パワーで口から電撃《でんげき》を放射し、西側の壁を吹き飛ばした。  東京都渋谷区・宇田川《うだがわ》町—— 「どいてどいてどいてーっ!」  ようやく揺れのおさまった公園通。パルコ前からマルイに至る坂道を、ビルから飛び出してきた人々を巧みにかわしながら、一台の自転車が疾走《しっそう》していた。息を切らせて懸命《けんめい》にペダルを漕《こ》いでいるのは、一七歳ぐらいの少女だ。ヘルメットをかぶり、タンクトップにスパッツというスポーティな格好をしている。 「やば! もうはじまってる!?」  渋谷駅に向かって必死に自転車を走らせながら、少女は歯ぎしりした。東急西館の陸橋の向こう、道玄坂の方向で、稲妻のような光が断続的にひらめいているのが見える。 「急がなくっちゃ!」  練馬から渋谷まで三〇分近くも自転車に乗り続け、すでにくたくたであるにもかかわらず、彼女はペダルを漕ぐ足にいっそう力をこめた。  東京都渋谷区・道玄坂一丁目——  ビルの五階の西側の壁が、内側からの爆発《ばくはつ》で吹き飛んだ。カリフラワーを思わせる灰色の煙がもうもうと渦《うず》を巻く。 「出てくるぞ!」  サハクィエルが部下に警告した。死に物狂いで脱出するつもりだろうが、そうはいかない。連中の行動は予測済みだ。こちらの姿が見えていないのに、勝機などあるものか……。  だが、煙の中から夜空に向かってサーチライトのように放たれた光は、彼の予測にはないものだった。 「何だ!?」  天使たちはうろたえた。その光に照らし出された者は、透明化の術を破られ、次々に姿を現わしてしまうのだ。  煙の中から、金色の龍がのっそりと首を出した。頭には算盤坊主《そろばんぼうず》の姿になった大樹がまたがり、大きな丸い銅鏡を掲《かか》げている。光はその鏡から放たれているのだった。四方八方に放射された光は、透明になっていた天使たちを次々に暴き出す。  雲外鏡である霧香の最大の能力は、隠れているものの本質を看破することである。彼女によって正体を見破られた者は、数十分の間、いかなる変身もできず、本来の姿をさらけ出すことになるのだ。 「そこだあ!」  流が電撃を発し、一人の天使を撃《う》った。白い翼《つばさ》が強烈な放電を浴びて燃え上がった。天使は翼から黒い煙を発しながら、ふらふらと地上に墜落《ついらく》してゆく。  だが、頭上にはまだ十数人の天使がいる。 「やれ!」サハクィエルが叫んだ。  流たちに向かって、燃える硫黄《いおう》、雷、子供の頭ほどもある雹《ひょう》などが、まさに雨あられと降りそそぐ。鎌を持っている天使は鎌を、槍《やり》を持っている天使は槍を投げた。これだけの集中攻撃を浴びたら、いくらタフな龍族でもひとたまりもない。  大樹はとっさに銅鏡を前に突き出した。鏡は一瞬《いっしゅん》だけ大きくなり、流の顔面を覆《おお》って、攻撃を代わりに受け止めた。  鏡面に命中した攻撃はすべてはじかれた。炎も、電撃も、零も、鎌や槍も、ことごとく空に向かって跳《は》ね返る。その方向はまったくのランダムで、霧香自身にもコントロールできない。  しかし、効果はあった。跳ね返った攻撃のいくつかは、天使たち自身に命中したのだ。何人かが悲鳴をあげて墜落する。思わぬ反撃を受け、天使たちはたじろいだ。 「ひるむな! 取り囲め!」  サハクィエルは即座に相手の弱点を見抜いていた。跳ね返せるのは鏡の表側からの攻撃だけだ。取り囲んで背後から攻撃すればいい。  だが、霧香たちはそれも予測していた。傾斜《けいしゃ》したビルの西側の壁面《へきめん》に沿って、さっと滑《すべ》り降り、狭い路地に飛びこんだのだ。細長い金色の身体をくねらせ、ビルの間の低空を飛び回る。  これなら容易に包囲はできない。 「追え!」  サハクィエルが叫ぶ。天使のうち六人がいっせいに降下し、流を追跡した。別の一隊が前方に回りこみ、はさみ打ちにしようとする。  路地から通りへ、通りから路地へ、迷路のような街の中で、流は九〇度の急旋回《きゅうせんかい》を繰《く》り返しながら逃亡した。天使たちは後方からぴったりついて来る。まだ透明のままの天使には、霧香が光を浴びせかけ、正体を露見《ろけん》させる。 「ちくしょう!」  敵を振りきれないので、流はあせった。大樹が鏡を頭上に掲げているので、反撃を警戒《けいかい》して撃ってはこない。しかし、追い詰められるのは時間の問題だ。  渋谷マークシティの方向へ抜けようと進路を北に転じたとたん、前方に剣《つるぎ》を持った三人の天使が舞い降りてきた。とっさに流は水撃を放った。中央の天使が大量の水を浴びてはじき飛ばされ、マークシティの壁面に叩きつけられる。他の二人は傷ついた仲間には目もくれず、すれ違いざまに斬《き》りかかってきた。  一人目の攻撃はどうにかかわした。しかし、二人目は—— 「ぐわっ!?」  悲鳴をあげたのは大樹だった。後ろを向いていたため、前方からの敵に気がつかなかったのだ。天使の剣は彼の脇腹《わきばら》を切り裂《さ》いていた。  大樹は鏡を抱えたまま転落した。 「しまった!」  流は助けに戻ろうとしたが、慣性があるので急には止まれない。マークシティの直前で上方に九〇度旋回し、反転しようとする。  追跡していた天使たちはその機を逃さなかった。落ちた大樹の頭上を通過すると、無防備になった流めがけていっせいに攻撃を開始したのだ。流は反転することを許されず、マークシティの壁面に沿って垂直に上昇《じょうしょう》するしかなかった。 「わっ!? このっ! ちくしょう!!」  流は急上昇しながら必死に身をくねらせ、攻撃をかわした。電撃が、槍が、雹が、マークシティの壁面に突き刺さり、ガラスを派手に粉砕し、コンクリートの破片をまき散らした。これだけの集中攻撃が一発も当たらなかったのは幸運と言っていい。  だが、その幸運も数秒しか続かなかった。 「うわっ!?」  マークシティの屋上に出た瞬間、そこに待機していた別の天使の放った光線を、まともに目に受けたのだ。たじろぎ、動きが鈍《にぶ》った瞬間、背後から激しい雹が襲ってきた。 「ぐわあ!」  流は失速し、マークシティの屋上に叩きつけられた。そこに空から太い槍が降ってくる。槍は彼の身体を貫き、コンクリートに突き刺さった。 「いいざまだな!」  まるで昆虫標本のように、マークシティの屋上に縫《ぬ》い止められた流を、六人の天使がすかさず包囲した。流はまだ意識はあるものの、槍に貫かれた腹部から激しく出血している。長い尻尾《しっぽ》をのたうち回らせ、四肢《しし》でがりがりとコンクリートの床をひっかくが、槍を引き抜くことはできない。 「く……くそ!」 「中国の龍族か……お前たちの弱点は知っているぞ」  そう言って笑ったのは、アラエルという名の天使である。彼がぱちりと指を鳴らすと、無数の羽音とともに、不吉な鳴き声が近づいてきた。  ほどなく、マークシティの上空に何十羽ものカラスが集まってきた。獲物《えもの》を探しているかのように、身動きできない流の上を旋回する。  アラエルが司《つかさど》るものは�鳥�——鳥類なら何でも自在に操ることができるのだ。 「龍は鳥につつき殺されると復活できない……確かそうだったな?」 「くっ!?」  流は危機を感じたが、腹を貫いている槍のせいで、身体《からだ》を起こすことさえできない。電撃を放とうにも、激痛のために意識が朦朧《もうろう》としてきた……。 「鳥につつかれ、みじめに死ぬがいい!」  そう言ってアラエルは、また指を鳴らした。  カラスたちはいっせいに降下し、流めがけて群がっていった。  一方、かなたと松五郎は、破壊された店内から懸命に脱出しまうとしていた。 「そっちの窓へ!」  松五郎が指示した。崩壊《ほうかい》した東側の壁のすぐ外に、向かいのビルの三階の窓が見える。地震《じしん》のためにガラスが窓枠《まどわく》ごと落下し、ぽっかりと四角い口を開けていた。そこに飛び移ろうというのだ。  かなたは迷うことなく跳躍《ちょうやく》した。人間離れした跳躍力を持つ彼女にとって、このぐらいのアクロバットは造作もないことのはずだった。  だが—— 「あうっ!?」  窓に飛びつく直前、彼女の身体はがくんと落下した。目に見えない何かに空中で殴《なぐ》られ、叩き落とされたのだ。 「かなたっ!?」  松五郎は壊れた壁から首を突き出し、下を見た。かなたは瓦礫《がれき》の散乱する路上に叩きつけられ、苦痛にうめいていた。普段ならこれぐらいの落下は平気なのだが、不意打ちをくらったため、受け身を取る暇《ひま》がなかったのだ。  立ち上がろうとすると右足首に激痛が走った。骨が折れたようだ。 「うう……!」  彼女は地面にうずくまり、足首を押さえて熱い涙《なみだ》をこぼした。それでもどうにか苦痛に耐《た》えて立ち上がろうとする。  ピシィ!  空気を切り裂《さ》く鋭《するど》い音とともに、背中に衝撃《しょうげき》が走った。 「きゃあ!?」  かなたは地面に打ちすえられ、悲鳴を上げた。  ピシィ! ピシィ! ピシィ! ピシィ!  続けざまに衝撃音が発生する。そのたびにシャツが裂け、背中が剥《む》き出しになってゆく。激痛が走り、白い肌に血が滲《にじ》む。かなたには何が起こっているのか分からない。空気を切り裂く音が聞こえるだけで、敵の姿はまったく見えない。二人のポテンティアテスが彼女の両側に立ち、交互に鞭《むち》を振り下ろしているのだ。 「やめろーっ!」  松五郎が飛び降りてきた。とっさに本来の姿——体長一メートルほどの茶色い野獣《やじゅう》に変身すると、さらにその身体を数倍に膨張《ぼうちょう》させ、娘の上に覆いかぶさる。  ピシィ! ピシィ! ピシィ! ピシィ!  鞭は今度は松五郎の背中を打ちはじめた。毛皮が裂け、血が飛び散る。相手が見えないのでは反撃のしようがない。かなたをかばって、ひたすら耐えるしかなかった。 「や……やめて、父さん!」かなたは悲痛な絶叫《ぜっきょう》をあげた。「死んじゃうよお!」 「何の!」松五郎は歯を食い縛《しば》って激痛に耐えた。「子供を守るのは……親の務めだ!」 「父さん……!」  そんな親子の情愛も、非情な天使たちには一片の感動も与えなかった。 「……埒《らち》が明かんな」  そうつぶやくと、片方のポテンティアテスが鞭を振るうのをやめ、元素転換に切り替えた。松五郎の上に手を差し伸べる。  かなたは見た——自分の上に覆いかぶさっていた父が急に硬直《こうちょく》したかと思うと、その毛皮が見る見る白く変色しはじめたのを。 「父さん……?」  松五郎は答えなかった。すでに白い彫像《ちょうぞう》と化していたからだ。ポテンティアテスがその背中に鞭を振り下ろした。  彫像は粉々に砕け、無数の塩の塊《かたま》りとなってかなたの上に降り注いだ。 「うわあああああーっ!?」  かなたは恐怖に絶叫した。完全な錯乱《さくらん》状態に陥《おちい》り、血まみれの野獣の姿に戻って、でたらめにのたうち回る。  ポテンティアテスは次に彼女に向かって手を差し伸べた。 「この! この!」  大樹は脇腹の激痛に耐えながら、懐《ふところ》から取り出した算盤をかき鳴らし、衝撃波を放射した。剣を持った二人の天使にどうにか傷を負わせ、一時的に撃退することに成功する。 「だいじょうぶ?」  人間の姿に戻った霧香が駆《か》け寄り、倒れそうになっている大樹を支えた。 「だいじょうぶ……じゃないですよ」大樹は血が流れ続けている腹を押さえながら、弱音を吐《は》いた。「僕はこういうの、向いてないんですから……」  二人は支え合うようにして、近くのビルの中に逃げこんだ。 「たす……けて……」  暗がりから弱々しい女の声が聞こえた。階段の下に若い女が横たわっている。派手《はで》な色彩のミニドレスを着ているところを見ると、上の階の風俗店で働いていたのだろう。逃げようとして階段から転落したらしい。  衰弱《すいじゃく》した大樹を階段に座らせると、霧香はしゃがみこみ、女を優しく抱き起こした。見たところ大きな怪我《けが》はしていない。単なる打撲《だぼく》のようだ。これなら助かる……。  ばさばさという羽音とともに、入口に複数の影が現われた。 「え……? 何なの……?」  女は目を見開いた。霧香によって透明化《とうめいか》の術を破られた天使は、人間の目にも見えるようになっていたのだ。 「見つけたぞ!」  先頭の天使が楽しそうに言った。  ビルの中に入ってきた天使は六人。みんな剣や槍《やり》で武装している。霧香は即座に状況を分析した。天使たちの目的は、自分たちが地上で活動しているという事実を隠蔽《いんぺい》すること。天使を目撃した者はみな殺さかるだろう。当然、この女性も……。  女性は動けないし、大樹もほとんど歩けない。二人を置いて逃げれば、少しは生き残れる可能性は高まるかもしれない。しかし—— 「……損な性分ね」  そう言って微笑《ほほえ》むと、霧香は二人をかばってすっくと立った。幸い、通路は狭いから、一度に襲っては来られないし、背後に回りこまれる心配もない。一分やそこらは持ちこたえられるだろう。 「霧香さん……だめです……逃げて……」  大樹が苦しい息の下から呼びかけるが、彼女の耳には入らない。 「さあ、来なさい」  挑発《ちょうはつ》された天使の一人が彼女に槍を投げつけようとしたが、別の天使に止められた。 「待て。私にまかせろ」  そう言って進み出たのは、黒く長い髪の長身の天使だった。甲冑《かっちゅう》も他の者とは違い、闇《やみ》のように黒い。  天使の名はレリエル——司るものは�夜�である。  レリエルは冷酷《れいこく》な笑みを浮かべながら、漆黒の剣を前に突き出した。その刃先から真っ黒い円柱状のものが放たれ、芳香の胸を射る。物理的にありえるはずのない�黒い光線�——夜の闇を凝縮した非物理的ビームなのだ。  霧香は苦悶した。あらゆる攻撃を跳ね返せる彼女が、唯一、抵抗できないもの。それは闇である。光なら反射できるが、闇とは光のまったくない状態なのだから、反射できるはずがない。吸収するしかないのだ。  レリエルの放つ闇ビームには、いかなるエネルギーも含まれていない。光も、物質も、震動も、熟も——絶対0度の究極の冷気を吸収し、霧香の体温は急降下しはじめた。 「霧香さん……!?」  大樹は弱々しく叫んだ。助けようにも、もう算盤をかき鳴らす力もない。風俗嬢はというと、信じられない光景を目撃して失神している。  霧香はそれでも足を踏ん張り、二人を守るために立ち続けていた。その美しい身体が硬直し、見る見る白い霜に覆われてゆく。 「シャルギエル、援護しろ!」  レリエルに言われ、雪を司る天使シャルギネルも攻撃に加わった。霧香を中心としたごく狭い範囲に、小さなブリザードが竜巻のように渦を巻いて吹き荒れた。すさまじい冷気が霧香に集中する。足許《あしもと》から透明な氷の結晶《けっしょう》が成長し、全身を覆ってゆく。  十数秒後、ブリザードが消えた時、直径二メートルほどの透明な氷柱が完成していた。霧香はその中に閉じこめられていた。すべてのエネルギーを奪われ、美しい顔に苦悶《くもん》の表情を浮かべたまま、完全に活動を停止している。 「魔物よ、滅せよ!」  そう言いながら、レリエルは剣を振り下ろした。 「やめろ……っ!!」  大樹の悲痛な訴《うった》えもむなしく、氷柱は剣の一撃を受け、砕け散った。  からん。  うつろな音を立てて、まっぷたつに割れた銅鏡が、大樹の足許に転がった。 「天使だ!?」 「まさか!」 「天使じゃないの、あれ!?」  道玄坂一丁目のあちこちで、人間たちの驚きの声が上がっていた。通行人や、倒壊《とうかい》をまぬがれたビルから脱出《だっしゅつ》してきた人たちが、夜空を見上げ、飛び回っている天使たちを目にしてしまったのだ。  サハクィエルにとっては困った事態である。 <うさぎの穴> の連中の口封《くちふう》じをするつもりが、かえって目撃者を増やしてしまった。ひとりずつ始末していては手間がかかる。  対応策は? もちろん決まっている。  彼は空に舞い上がった。サハクィエルの司るものは�空�。天の物理法則を歪《ゆが》め、雨や雪や雷以外の、本来ありえないものを降らせることができる。  妖怪《ようかい》たちの始末が終わりしだい、この地区一帯に火の雨を降らせ、一気に焼きつくすつもりだった。 [#改ページ]    6 死闘の果てに  東京都文京区・後楽園ゆうえんち——  同日・同時刻——  ここでも激しい死闘《しとう》の幕が切って落とされようとしていた。 「来やがったか……」  アザゼルは夜空を見上げ、いまいましそうにつぶやいた。  摩耶も空を見回したが、何も見えない。頼りになるのは聴覚だけだが、地震《じしん》が過ぎ去った後もまだ遠く地鳴りが続いているし、塀《へい》の外から聞こえる車のクラクションや怒号にまぎれ、天使たちの羽音を聴き取るのは難しい。  アザゼルはすぐさま服を引き裂《さ》いて巨龍《きょりゅう》に変身し、同時に透明化《とうめいか》した。彼の姿が見えなくなったので、摩耶はとまどった。すぐ傍《そば》に巨大なものがいる気配はするのだが、網膜《もうまく》には何も映らない。 「少し痛いが、我慢《がまん》しろ」  虚空《こくう》からアザゼルの声がした。 「え?」 「こういうのはあまりやりたくないんだが……」  そう言いながら、アザゼルは逆棘《さかとげ》のついた尻尾《しっぽ》の先端《せんたん》で軽く摩耶の右眼を打った。 「あ……!」  摩耶は痛みを覚え、眼を押さえた。目蓋《まぶた》から頬《ほお》にかけて傷ができ、血が流れている。 「眼を開けてみろ」  摩耶はどうにか我慢しながら、ずきずきと痛む右の目蓋を開けた。  七つの頭を持つ真っ赤な巨龍が目の前にいた。  摩耶は背筋に震《ふる》えが走るのを覚えた。千駄木での戦闘の際、初めてアザゼルの本当の姿をちらっと目にした時には、恐怖《きょうふ》のあまり失神しそうになったものである。すぐに朦朧《もうろう》状態から脱《だっ》したが、心臓の激しい動悸《どうき》はなかなかおさまらなかった。二度目とはいえ、やはり恐《おそ》ろしい。自分の選択は間違いだったのではないかとさえ思う。  アザゼルの姿があまり元天使らしくないのは当然である。現在のような天使のイメージが定着したのはローマ時代後期で、特に翼《つばさ》を持つギリシャの勝利の女神ニケや、ローマの愛の神キューピッドの影響が大きい。それ以前に誕生したアザゼルは、たとえば旧約聖書の『エゼキエル書』に登場する異様な姿のケルビム(智《ち》天使)やトロウンズ(座天使)などと同様、そうしたイメージに縛《しば》られていないのだ。 「空を見てみろ」  摩耶は言われた通りに顔を上げた。天使たちが低空を舞っていた。金色の甲冑に身を包み、白い翼をはばたかせて旋回しながら、この後楽園を包囲している。その数、一〇人以上——しかし、見えるのは右眼だけで、左眼では暗い夜空が見えるだけだ。  悪魔の尻尾で眼を傷つけられた者は、見えないものが見えるようになる——ロシアでは昔からそう信じられている。 「ぬかるなよ」 「はい……!」  摩耶は強くうなずくと、黒い夢魔《むま》の鎧《よろい》をまとった。  アザゼルは一二枚の翼を打ち振り、突風を巻き起こしながら、ゆっくりと空中に舞い上がった。摩耶も彼に寄り添うように上昇《じょうしょう》する。天使たちは旋回を続けながら、慎重《しんちょう》に包囲の輪を縮めてくる。 「それで包囲したつもりか? だがな……」  アザゼルはせせら笑った。 「俺に死角はないぜ!」  先手必勝。彼は一四の口をかっと開き、一四方向に次々と火炎を放射した。近づきすぎていた天使の一人が直撃をくらって吹き飛ばされ、翼を炎上させながらビッグエッグに墜落《ついらく》していった。天井を突き破って内野席に落下する。別の天使は急旋回して攻撃《こうげき》をかわそうとして、誤って大観覧車に激突した。  他の天使たちは高度を下げ、コースターの軌道《きどう》やタワーハッカーの塔《とう》などを盾《たて》にして攻撃を避けつつ、反撃してきた。電撃や鎌や槍《やり》が四方から降り注ぐ。アザゼルは火炎を放射し、それらを正確に迎撃した。それでもすべては防ぎきれず、何発かは巨体に命中して、鱗《うろこ》をはじき飛ばし、肉を裂き、溶岩《ようがん》のように燃える血を噴出させた。  水道橋駅の周囲には、この時間でも通行人は少なくない。しかし、彼らの目に映るのは、夜空を切り裂く閃光《せんこう》や、激しく噴き上がる炎だけだ。東京のど真ん中で天使と悪魔《あくま》の激しい戦いが展開されているなど、思いもよらない。それに彼らはみな大地震のショックから脱しておらず、自分の身や家族のことを心配するので手いっぱいだった。  メリーゴーランドの屋根に隠《かく》れて電撃を放っていた天使がいた。摩耶は急降下し、そいつにつかみかかった。天使は元素転換能力を使って彼女を石に変えようとする。だが、そのパワーが発動するよりも早く、夢魔の強烈《きょうれつ》なパンチが炸裂《さくれつ》した。天使は吹き飛ばされ、お化け屋敷《やしき》の看板に叩《たた》きつけられて気を失った。  包囲の輪の一画、南東の方向が崩《くず》れた。アザゼルは翼で空気を打って加速し、一気にそこを突破しようとする。  だが、それは陽動であった——アザゼルを罠《わな》に誘《さそ》いこむための。  後楽園の東、白山通りの路面に巨大な亀裂《きれつ》が発生した。轟音《ごうおん》とともに、不気味な黒煙《こくえん》が火山のように激しく噴出し、黒いカーテンとなってアザゼルの前にそそり立つ。 「何!?」  アザゼルは右に急ターンし、寸前でそれをかわした。ほとんど同時に、ガラガラという馬車のような音がしたかと思うと、無数の小さな生き物の群れが雲の中から飛び出してきて、アザゼルの巨体に群がっていった。  そのうちの一匹が自分の傍を通過する瞬間《しゅんかん》、摩耶はその姿を目にし、恐怖に襲われた。大きさは赤《あか》ん坊《ぼう》ぐらい。バッタのような形で、羽根を震わせて飛行しているが、サソリのような長い尾がある。ガラガラという音はその昆虫の羽音であった。恐ろしいのは身体の前半分だ。顔は人間のようで、金の冠《かんむり》をかぶり、髪は長く、鋭《するど》い歯を剥《む》き出しにしている。胸には鉄の胸当てをつけていた。 「鉄蝗《アルベー》を召喚《しょうかん》しやがった!?」  さすがのアザゼルも狼狽《ろうばい》した。彼は知らなかったが、地底に棲《す》む蝗《いなご》の怪物鉄蝗はすでに何分も前から召喚され、白山通りの下を走る都営三田線の軌道内にひそみ、地上に飛び出す機会をうかがっていたのだ。  何百匹という鉄蝗は、磁石《じしゃく》に引きつけられるかのように、赤い龍《りゅう》の巨体にまとわりつき、覆《おお》いつくした。鉤爪《かぎづめ》のついた足でしがみつき、厚い鱗の隙間《すきま》に尾をねじこんで、鋭い針を肉に突き刺す。 「ぐわっ!」  アザゼルは空中で身をよじって苦悶《くもん》した。鉄蝗の毒には人を殺す力はないが、犠牲者《ぎせいしゃ》にすさまじい激痛をもたらす。 「アザゼル!?」 「来るな!」  近寄ろうとする摩耶を、アザゼルは制した。即座に全身の鱗という鱗から火を発し、炎の塊りとなる。鉄蝗たちは焼け焦《こ》げ、黒い炭《すみ》となってばらばらと地上に落ちていった。生き残った数十匹は、慌《あわ》てて燃える巨龍から離れる。  危機は脱《だっ》した?——いや、違う。それこそ天使たちの狙《ねら》いだったのだ。鉄蝗を使ってアザゼルを牽制《けんせい》し、一瞬だけ彼の動きを止めるのが。  ざああああ……。  雲のほとんどない夜空から、無数の雹《ひょう》が降ってきた。一個が直径三〇センチはある。それが秒速数十メートルの速度で落下してきて、アザゼルの背中を乱打した。 「あうっ!?」  さしもの巨体も、この強烈な爆撃には耐《た》えられない。後楽園ゆうえんちの南側、パラシュートランドに向かってふらふらと落下し、二年前に完成したばかりの吊《つ》り下げ式コースター、リニアゲイルの軌道に衝突した。そこにさらに雹が降り注ぐ。氷はすぐに高熱で蒸発《じょうはつ》したが、その際に燃える巨龍の体表から熱を奪った。アザゼルの全身を覆っていた炎が急速に消えてゆく。  炎が消えると同時に、雹の攻撃も止んだ。だが、新たな攻撃がアザゼルを襲う。全長二〇〇メートルのリニアゲイルの軌道がうねうねとうごめいたかと思うと、巨大な蛇《へび》に変化し、彼にまとわりついてきたのだ。アザゼルの全身にからみつき、ぐいぐいと締《し》めつけてくる。 「まさか……この技は!?」 「そう、私だ」  そう言いながら、白山通りを隔《へだ》てた向かい側にあるビルの上から、異様な姿の天使が浮かび上がってきた。 「ああ……!」  その恐ろしくも美しい姿を目にして、摩耶は激しく畏怖《いふ》し、言葉を失った。その天使は身長三メートルもあり、白い衣を旗のようになびかせている。その背中には、身長のさらに数倍の長さがある翼が数十枚も密生し、四方に大きく広がっていた。さながら夜空に浮かぶ大輪の花だ。翼にはどれも孔雀《くじゃく》の羽根のように多数の眼がある。よく見れば、剥き出しになった腕や手にも眼がついていた。  大天使メタトロン——一説によれば、『出エジプト記』の中で神の使者として様々な奇跡を行なったのが、このメタトロンだとされている。アロンの杖《つえ》を蛇に変え、ナイル河の水を血に変え、蛙《かえる》や虻《あぶ》の群れを発生させ、者を降らせ、疫病《えきびょう》を流行させ、エジプト人の子供たちを大量に虐殺《ぎゃくさつ》したのだと。  無論、事実ではない。しかし、そう信じる者たちが多かったため、メタトロンはそのような能力、そのような性格を持って生まれてきた。『天使の世界』の著者《ちょしゃ》マルコム・ゴドウィンは、メタトロンを「執念《しゅうねん》深い異常な殺人鬼」と呼び、『出エジプト記』について「知性を持った読者なら誰《だれ》でも、光の神の手というより激烈な悪の手を目にすることができるだろう」と酷評《こくひょう》している。 「くそっ!」  アザゼルは束縛《そくばく》から逃れようともがいたが、すでに蛇は再び鋼鉄に変化しており、完全に彼を押さえこんでいた。 「一五〇〇年ぶりの再会を喜びたいところだが、その時間はない」美しい表情を少しも変えることなく、メタトロンは宣告した。「お前はここで死ぬのだ」  摩耶はアザゼルを助けようと、ねじくれたリニアゲイルの軌道《きどう》に飛びついた。しかし、いかに夢魔の怪力《かいりき》でも、太い鋼鉄のパイプを曲げるのは難しい。 「逃げろ! 摩耶!」  束縛から逃れようともがきながら、アザゼルは言った。 「でも……」 「早く行け!」  なおも逡巡《じゅんじゅん》している摩耶に、二人の天使が衝撃波《しょうげきは》を浴びせてきた。摩耶はとっさにかわした。パラシュートランドのシンボル、高さ六二メートルからの落下を楽しむスカイフラワーの横をすり抜け、西に逃げようとする。  だが、そこにも鎌を持った別の天使が立ちふさがっていた。摩耶は高速で急旋回《きゅうせんかい》し、スカイフラワーの周囲を半周した。追って来ようとした天使の一人は、スカイフラワーから垂れ下がったワイヤーにひっかかり、からみついてしまった。  頭上からの電撃や衝撃波を間一髪でかわしながら、摩耶はパラシュートランドの敷地内をジグザグに飛び、ガラスを突き破って建物の中に飛びこんだ。後楽園ゆうえんちの地下|施設《しせつ》、ジオポリスの入口だ。彼女を追って、二人の天使もジオポリスの中に姿を消す。 (頼むから逃げてくれよ……)  アザゼルは心の中で祈《いの》った。  身動きならない彼の周囲に、四人のポテンティアテスが舞い降りてきた。手を差し伸べ、元素転換能力を発動する。巨龍の尾や翼《つばさ》が、端《はし》からゆっくりと石化しはじめた。 「こんなもの!」  アザゼルは自分も元素転換能力を発揮した。さっき摩耶を元に戻すのに使った力だ。翼の途中まで進行していた石化がぴたりと止まり、じわじわと押し戻されてゆく。だが、ポテンティアテスも負けてはいない。いっそうパワーをこめ、アザゼルの巨体を石化しようとする。二つの力は完全に拮抗《きっこう》していた。  他の天使たちはアザゼルの背面に回りこんだ。身動きできないのをいいことに、背中に槍《やり》や鎌をぐさぐさと突き立てる。 「うっ!……ぐっ!」  アザゼルは一四の口でうめいた。元素転換は精神集中を必要とする。この力を使っている間は、動くことも、火炎で反撃することもできないのだ。かと言って、精神集中を中断すれば、たちまち石化されてしまう。  なす術もなく、アザゼルの背中に傷が増えてゆく。燃える血が滝のように流れ落ち、リニアゲイルの軌道を赤く染める。 「苦しみながら死ね、アザゼル!」  宿敵の苦悶する様を見下ろし、メタトロンは誇《ほこ》らしげに笑った。  東京都渋谷区・道玄坂一丁目——  同日・同時刻——  今まさに流に襲いかかろうとしていたカラスの群れ。その先頭の数羽が、突然、見えない付かによって切り裂《さ》かれた。黒い羽根と臓物をまき散らし、ぱっと四散する。残りのカラスたちはたちまちパニックに陥《おちい》り、ぎゃあぎゃあ叫《さけ》びながら飛び去った。 「何!?」 「誰《だれ》だ!?」  勝利を確信していたアラエルたちは、意外な展開に驚き、攻撃を放った相手の姿を求めて周囲をきょろきょろ見回した。 「ちょっとそれは卑怯《ひきょう》ってもんじゃない?」  そう言いながら、屋上の手すりを乗り越《こ》え、のっそりと姿を現わしたのは、さっきまで自転車を漕《こ》いでいた少女と同一人物とはとても思えなかった。息も止まりそうな妖艶《ようえん》な美女で、黒く長い髪を振り乱している。大急ぎでビルの壁面《へきめん》を這《は》い上がってきたので、息を切らせていた。その下半身は黄色と黒の縞模様《しまもよう》の巨大な蜘蛛《くも》で、八本の脚《あし》を不気味にうごめかせている。カラスを一瞬にして切り裂いたのは、その手から放たれた細い糸だ。  少女——穂月《ほづき》湧《ゆう》は蜘蛛女なのだ。 「一人を大勢でなぶりものにする……どう考えたって、悪人のやることだよねえ?」 「湧ちゃん!」流が叫《さけ》ぶ。 「何を!」突然の新たな敵の出現に、アラエルはかっとなった。「きさま、神に逆らうというのか!?」 「神だろうが天使だろうが!」湧は言い放った。「悪は悪だ!」  そう言うと、彼女はぷっと口から何かを放った。 「ぐわあああああっ!」  アラエルは左眼を押さえてのたうち回った。長い針が眼球に突き刺さっている。 「おのれ!」  他の五人の天使がいっせいに身構えた。湧も指を突き出し、糸を発射する体勢に入る。さすがに一対五では分が悪いかな、と思ったその時——  強烈な女性ソプラノがマークシティの屋上に響き渡った。ただの声ではなく、破壊力を秘めた魔《ま》の声だ。湧は少し耳が痛くなっただけで済んだが、直撃を受けた天使たちはたまらない。頭を押さえ、羽根をまき散らしてもがき苦しむ。  ようやく音が止んだかと思うと、今度は空から炎が降ってきた。一人の天使に命中し、翼を炎上させる。  きらめく五色の毛皮に覆われた美しい獣《けもの》が、空から舞い降りてきた。何もない空中を地面のょうに駆《か》けている。体形は馬のようだが、頭は狼《おおかみ》のようで、額から一本の角が生えていた。その背中には青年がまたがっている。 「とうっ!」  青年はかっこつけて飛び降りると、屋上に着地した。その姿が見る見る巨大化し、電化製品などの粗大ゴミを寄せ集めて作った恐竜《きょうりゅう》のような怪物に変化する。湧があっけに取られて見ているうちに、怪物は火炎、冷気、電撃などを次々に放ち、さっきの音波攻撃でダメージを受けた天使たちを追い散らす。  背後でばさばさと羽音がした。湧はとっさに振り返り、糸を放とうとする。 「待って待って! 私、天使じゃありませんわ!」  慌《あわ》ててそう叫んだ娘の姿は、確かに天使とはちょっと違う。背中から生えた白い翼で空を飛んでいるが、身体はレオタードのようにも見える羽毛に覆われている。外見は中学生ぐらいで、髪は短く、耳が少し尖《とが》っていた。なぜか手にカメラを持っている。 「初対面でしたわね? 私、鷹野《たかの》和音《かずね》と申します。 <海賊《かいぞく》の名誉亭《めいよてい》> の者で……」 「ちょっと、自己紹介やってる場合!?」  そう言ったのは、彼女の手にしていたカメラである。それは手からひょいと飛び出すと、空中で一回転して人間サイズになり、屋上にかろやかに着地した。全身が銀色に輝く全裸《ぜんら》の女性で、黒いフィルムが巻きついている。  彼女が腕を振ると、空に向かってするするとフィルムが伸びた。数十メートル上空、見えない何かがそれにからめ取られ、激しくもがく。霧香の光線を浴びておらず、まだ透明《とうめい》なままだった天使だ。  結城《ゆうき》雷華《らいか》はカメラの付喪神《つくもがみ》だ。その眼は強力な望遠レンズであると同時に、生物の放つオーラを見ることができる。透明化してもオーラによっておおよその位置は分かる。  雷華はフィルムを巻き戻し、空中でもがいている天使を引きずり下ろした。一〇メートルまで引き寄せたところで、右手の人差し指を突きつける。針のように細いビームが指先から放たれ、天使は一撃《いちげき》で爆散《ばくさん》した。  空中では、麒麟《きりん》の各務《かがみ》麟《りん》が飛び回り、天使たちを追い回していた。彼女の角から放たれる光線も強力で、天使たちを次々に撃墜《げきつい》してゆく。 「ほんと、自己紹介は後だね!」  そう言いながら、湧は自分に向かって飛びかかってきた天使に糸を放ち、その翼をずたずたに切り裂《さ》いた。天使は悲鳴をあげながら、はるか下の地上へ落下していった。和音も自慢《じまん》の美声を放ち、その破壊力で天使たちを痛めつける。  形勢は逆転しつつ あった。  かなたを元素転換しようとポテンティアテスが手を差し伸べた瞬間《しゅんかん》、彼女の周囲のアスファルトがすぽっと陥没《かんぼつ》した。突然できた直径一メートルほどの穴に、彼女の身体は呑《の》みこまれ、見えなくなった。 「これは!?」  ポテンティアテスの一人が慌てて駆け寄り、穴を覗《のぞ》きこむ。  次の瞬間、穴の中から土が勢いよく盛り上がり、その顔面にぶつかった。斧《おの》のような形になった土は、一撃で天使の顔面を打ち砕き、またひっこんだ。朦朧《もうろう》となったために透明化の術が破れた天使は、ふらふらとその姿を現わす。  そこに再び地中からの攻撃。ポテンティアテスは斧状の土によって股《また》から頭までをまっぷたつに裂かれ、絶命した。 「こんばんは……っと」 「うっ!?」  もう一人のポテンティアテスは狼狽《ろうばい》した。穴の中からひょっこり顔を出したのは、人間ほどの大きさがあるモグラである。眼の小さなユーモラスな顔を彼の方に向けている。 「きさま、我々《われわれ》の姿が……!?」 「いえ、見えておりませんよ」  そう言うと、教授は再び地斬波《ちざんは》を放った。敵の足許《あしもと》の大地を変形させ、刃物《はもの》のように相手を斬《き》り裂くという技だ。今度はアスファルトにはばまれたので威力《いhリよく》が削《そ》がれたが、ポテンティアテスの脚《あし》にかすり傷を負わせ、空中に退散させることに成功した。 「とりあえず、一矢は報いさせていただきましたな」  土龍精《どりゅうせい》——モグラの妖怪《ようかい》である教授は、光のない地中の生活に適応しており、潜水艦《せんすいかん》のソナーのように音で物体の位置を探知できる。天使の発している声や羽音を頼りに攻撃《こうげき》を放ったのだ。  しかし、ソナーで探知できるのはせいぜい二〇メートルまでだし、空中の敵に地斬波は届かない。空から攻撃をかけられては不利だ。早々に地中に退却《たいきゃく》する。  地下四メートル、水平に掘《ほ》られた細く暗い穴の中では、狸《たぬき》の姿に戻ったかなたが身を震《ふる》わせて泣き続けていた。 「父さんが、父さんが、父さんが……父さん父さん父さん父さん……」  ショックのあまり、一時的に精神が錯乱《さくらん》しているのだ。教授はやむなくその頭を殴《なぐ》り、大声で叱《しか》りつけた。 「しっかりしなさい! 戦いはまだ続いてるんですよ!」 「だって、父さんが……あたしのせいだ……あたしの、あたしの、あたしの……」 「違う! 自分を責めてはいけない! 私のせいだ! 責めるなら私を責めなさい!」  そう怒鳴《どな》りながら、教授はかなたをぎゅっと抱きしめた。ほんの数秒の差で松五郎を救えなかったことが、彼にも悔しくてたまらない。五階からの降下という恐《おそ》ろしい体験の直後で気が動転していたうえ、揺《ゆ》れがおさまってもしばらくは地中に地鳴りが充満していたため、ソナーも使えなかった。そのため、かなたたちの危機に気づくのが遅れたのだ。 「とにかく、ここはいったん逃げましょう。私たちの力では不利ですから」 「だって……だって……」  教授はついにかんしゃくを破裂《はれつ》させた。「いい加減にしなさい! 君まで死んでどうなるんです!? お父さんの遺志《いし》を無にするつもりですか!?」 「だって……」 「さあ、早く!」  なおもためらうかなたの手を引いて、地中を移動しようとしたその時——  あたりが急に明るくなった。 「これは!?」  見上げた教授は愕然《がくぜん》となった。トンネルの天井が透明になっている! ポテンティアテスが地中の敵を暴き出すため、厚さ四メートルの土をガラス化したのだ。 「しまった!」  周囲をガラスに囲まれ、教授は狼狽《ろうばい》した。彼は地中を秒速二メートルで掘り進む能力があるが、掘ることができるのは土だけだ。地斬波でもこんなに厚いガラスは砕けない。物質透過は使えないことはないだろうが、かなたを置き去りにすることになる。  別の天使がサーチライトのような光線を浴びせかけてきた。光線はガラスを透過し、トンネルの中を真昼のようにまばゆく照らし出す。教授は眼を押さえ、苦痛にうめいた。 「教授!?」 「ぬう!……これはちと、きついですな……!」  モグラの妖怪《ようかい》である彼は光に弱いのだ。 「効いているぞ! シャムシェル、その調子だ!」  ポテンティアテスは地中に向けて光線を放っている仲間の天使を激励《げきれい》した。シャムシェルが司《つかさど》るのは�昼�。夜間でも太陽と同じ光を生み出し、昼間に変えることができるのだ。厚いガラスを通して、光を浴びた大きなモグラが苦しんでいる姿が見える。 「分かっている」とシャムシェル。「このままじわじわと……えっ!?」  異様な気配を感じ、彼は空を仰いだ。頭上に巨大なミレニアム・ファルコン号が出現している。その底面にある銃座《じゅうざ》からパルス・ビームが放たれ、シャムシェルを直撃した。 「うわあっ!?」  シャムシェルは悲鳴をあげて墜落《ついらく》した。映画マニアの蜃《しん》(蛤《はまぐり》の妖怪)、朧《おぼろ》孝太郎《こうたろう》の幻覚《げんかく》攻撃だ。幻覚なので実際に傷は負わないのだが、あまりにリアルなので、攻撃を受けた者は激しい痛みを感じる。 「うん、やっぱり『スター・ウォーズ』はNHですね」  自分の創った幻影を見上げ、孝太郎は満足そうにうなずく。  まだ透明だったシャムシェルは、墜落のショックで姿を現わしていた。ビームを放っていたのが彼の失策だ。姿は消していても光線は見える。容易に発射位置を突き止められ、孝太郎の標的になったのだ。 「緒方《おがた》さん、まかせましたよ!」 「おう!」  筋肉質の大男が路地裏から飛び出してきた。シャムシェルは立ち直る暇《ひま》もなく、大男につかみかかられ、太い腕で首を締《し》め上げられてあっさり落ちた。 「何でえ、ふがいない!」  緒方|庸平《ようへい》は不満を漏《も》らした。彼は怪力の半人半鬼であり、昨年のKOグランプリの決勝にまで残った格闘家《かくとうか》でもある。天使が腕力でかなうわけがない。  ポテンティアテスが悲鳴をあげた。背後から緒方に忍び寄って元素転換しようとした時、近くのビルからしなやかな人影が跳躍《ちょうやく》し、背中に飛び乗ったのだ。全身が三色の毛皮に覆《おお》われ、長い尻尾《しっぽ》と猫《ねこ》の耳を持つ女だ。 「こ……この!」 「あたしには見えてるんだニャン!」  猫女——三池《みいけ》陽子《ようこ》はそう言うと、透明な天使の首にしっかりしがみついた。鉤爪で天使の顔をひっかき、眼球をえぐり出す。 「あぅああああ〜っ!?」  視力を失ったポテンティアテスはでたらめに飛び回り、渋谷線の高架《こうか》に激突した。その直前に陽子はひらりと飛び降りている。姿を現わしてふらふらと玉川通りに降りてきた天使は、走ってきた無人のワーゲンに跳《は》ね飛ばされた。  戦闘《せんとう》は夜空でも繰《く》り広げられていた。麟や和音など、飛行能力を持つ妖怪《ようかい》が飛び交い、天使たちを相手に空中戦を展開している。身長一〇センチほどのジンニヤー(アラビアのランプの精)のアシャーキーがその合間を飛び回り、魔法で天使たちを幻惑《げんわく》して援護《えんご》する。低空に降りてきた天使は、地上からの光線や火炎で撃墜《げきつい》され、飛行能力を持たない妖怪たちに襲いかかられて、ずたずたにされてゆく。  渋谷の空から天使たちが着実に減りつつあった。  霧香を倒《たお》し、大樹にとどめを刺そうとしていたレリエルたちも、思いがけない異変に見舞われていた。 「ういいい〜……ひくっ!」  最後尾にいた天使が急に奇声を発し、剣《つるぎ》を振り回しはじめたのだ。それを止めようとした仲間の天使たちにも、同じ症状《しょうじょう》が伝染する。たちまち五人の天使が錯乱し、わけの分からないことを叫《さけ》びながら、狭い廊下の中でお互いを傷つけはじめた。 「な……何だ!? どうしたんだ!?」  レリエルは取り乱し、あたりを見回した。何らかの攻撃を受けている。どこか近くに敵がいるはずだ……。 「探しもんかい?」  ドスの利いた低い声とともに、天井に生じた亀裂《きれつ》から、緑色の大きな蛇《へび》がぬっと顔を出した。  うわばみの有月《ありつき》成巳《なるみ》である。 「きさま! 何をした!?」 「なあに、わしの息をちょっとな」  そう言って笑うと、有月は口をかっと開いた。レリエルは剣で斬《き》りかかろうとしたが、その直前、酒臭い息が彼の顔にかかった。 「え? げふっ? ひくっ!」  レリエルはしゃっくりをした。  有月の最大の能力は、息を吐《は》きかけることで、自分の体内に蓄積《ちくせき》していた大量のアルコールを相手の血液中に送りこむことだ。それはダメージを与えるだけではなく、相手を瞬間的《しゅんかんてき》に酔《よ》っ払わせてしまう。  天使の生活は厳格だ。もちろん酒など一滴も呑《の》まない。だからアルコールに対する耐性《たいせい》も低い。有月の攻撃は抜群の効果を発揮《はっき》した。 「うおおおおーっ!」  レリエルはひと声|吠《は》えると、剣を無茶苦茶に振り回した。しかし、有月の姿が二重三重に見えるので、なかなか当たらない。それどころか、勢い余った剣が仲間の天使たちを傷つけてしまう。他の天使たちも同様で、完全に錯乱して、お互いに剣で突き合ったり、氷や衝撃波《しょうげきは》をぶつけ合ったりしている。  天使たちが同士討ちでぼろぼろになったところに、黒い毛の塊《かたま》りのようなものが飛びこんできた。長い髪を鞭《むち》のように振り回し、その鋭《するど》い先端部で正確に天使の咽喉《のど》を貫き、とどめを刺してゆく。酔っ払った天使たちはろくに抵抗《ていこう》することもできず、次々に倒《たお》されていった。  ほんの十数秒で六人の天使を一掃すると、毛羽毛現《けうけげん》の神谷《かみや》聖良《せいら》は、中性的な容貌《ようぼう》の女性の姿に変身した。倒れている大樹に駆《か》け寄り、抱き起こす。 「だいじょうぶ、大樹くん? 歩ける?」 「ええ、ありがとうございます……でも」  足許《あしもと》に転がっている割れた銅鏡を見下ろし、大樹は悲しげにつぶやいた。 「あと一分早く来て欲しかったです……」 「どうなっているんだ!?」  道玄坂上空を旋回《せんかい》しながら、サハクィエルは激しく動揺《どうよう》していた。ついさっきまで勝利を確信していた。だが、ほんの数分で情勢が激変してしまったのだ。  妖怪《ようかい》たちの奇襲を受け、二四人いた天使はすでに半減し、残りも着実に倒されつつあった。サハクィエルは混乱していた。あの妖怪どもはどこから現われたのだ? 通信は封鎖《ふうさ》していたはずなのに、どうやって集まってきたのだ?  彼は知らなかった。天使たちが道玄坂一丁目を包囲し、 <うさぎの穴> に注意を集中している間に、東京各所から集まってきた妖怪たちが、その周囲をさらに包囲して、ひそかに攻撃の機会を待っていたのだ。あいにくと透明《とうめい》なものを見る能力を持つ妖怪は少ない。だから霧香が光線を浴びせかけ、天使たちの姿を暴き出すまで、突入を控《ひか》えていたのだ。 「こうなったら……」  サハクィエルは空中に静止すると、翼《つばさ》を大きく広げ、自らの力を解放した。まだ天使が何人か生き残っているが、やむをえない。このあたり一帯に火の雨を降らせて、まとめて焼き殺してやる。  流星を思わせる炎の矢が、空からばらばらと降りはじめた。まだ小降りだが、数十秒もすれば火の大雨となって、この街を炎の地獄《じごく》に変えるはずだ……。  その時、青い光が地上から彼めがけて一直線に上昇《じょうしょう》してきた。 「何!?」  サハクィエルは身の危険を感じ、とっさに風を操って火の雨をそれに集中させた。だが、いくら炎をぶつけても青い光はひるむ様子はなく、ぐんぐん接近してくる。それは直径一メートルほどの火の玉で、中央に眉《まゆ》をしかめた男の顔が浮かんでいた。 「わしに火は効かんぞおおお!」  そう言いながら、野火——田原《たはら》玄堂《げんどう》はサハクィエルに肉迫した。サハクィエルは身をひるがえして逃げようとしたが、決断が一瞬遅かった。玄堂の放った炎の輪が天使を取り囲み、逃げ道をふさいでしまったのだ。  上に逃げればいい——と気づくよりも先に、真下から玄堂がぶつかってきた。灼熱《しゃくねつ》の炎がサハクィエルを包みこむ。 「ぎゃあああああーっ!!」  天使は熱さに絶叫《ぜっきょう》した。たちまち翼が燃え上がり、飛行能力を失う。今や腹の下に潜《もぐ》りこんだ玄堂に支えられている格好だ。 「どうだ!? わしの炎は誰《だれ》よりも熱いぞ!」 「や、やめてくれ……あああ、熱いーっ!」 「殺された東京都民の恨《うら》み、思い知れ!」 「うわあああああーっ!!」  炎の中で手足をばたつかせてのたうちながら、サハクィエルはゆっくりと燃えつきていった。  東京都文京区・後楽園ゆうえんち——  同日・同時刻——  ジオポリス内を走る屋内型コースター、ジオパニックのトンネルの中を、摩耶は高速で飛行しながら逃げ続けていた。非常灯が各所で点灯しているとはいえ、ほとんどの区間は真っ暗だ。レールに指で触れ、その感触を頼りに飛行するしかない。ちょくちょくターンに失敗し、壁《かベ》に叩《たた》きつけられた。  後ろからは大きな鎌を持った二人の天使が追ってくる。地下に誘《さそ》いこんだのは、天使が金色のオーラを放っているのに対し、自分は黒いから、暗闇《くらやみ》なら有利になると思ったからだ。だが、天使にもオーラを見る能力はある。暗闇でも摩耶の放つオーラを目標に、正確に追跡してくるのだ。  鎌を持った天使に追われて地中を逃げ回る——悪夢のような体験だが、これはまぎれもなく事実なのだ。  直線コースに入ったところで、一人の天使が加速し、すぐ背後に迫った。摩耶はとっさにレールをつかんで急停止すると、突進してきた天使の顔面にキックを叩きこんだ。夢魔《むま》の力に天使自身の慣性が加わり、思いがけない破壊力を発揮《はっき》する。頭を砕かれた天使は、鎌を手放し、レールの間に突《つ》っ伏《ぷ》した。  すぐ後からもう一人の天使が鎌を振り上げて迫ってくる。摩耶は天使の落とした鎌を拾い上げ、それを迎え撃《う》った。  かきーん!  金色の鎌がぶつかり合い、トンネル内に澄《す》んだ音を響かせた。 (そんな!?)  摩耶は驚いた。夢魔の力で鎌を振り回せば、相手の鎌をはじき飛ばせると思ったのに、この天使は彼女の攻撃を受け止め、よろめきもしなかったのだ。  かきーん! かきーん! かきーん!  天使は続けざまに鎌を振り下ろす。摩耶はそれを受け止めるので精いっぱいだ。腕に走る衝撃《しょうげき》から、この天使が恐《おそ》ろしく強い力を持っていることが分かった。 「そらそら、どうした、悪魔!?」攻撃を繰《く》り返しながら、天使は楽しそうに言った。「きさまの力はその程度か!」  天使の名はゼルエル。司《つかさど》るものは�力�——その筋力は夢魔とはぼ互角だ。いや、むしろゼルエルの方が有利だろう。現代の日本に生きる女の子としては当然のことながら、摩耶は鎌で戦った経験などない。技量が違いすぎる。 (こんなことなら、なぎなたでも習っとくんだった!)  ゼルエルの攻撃に一方的に押されながら、摩耶は泣きたい気持ちだった。 「でやーっ!」  一気にゼルエルが踏《ふ》みこんできた。摩耶はその攻撃を受けそこねた。黒い装甲《そうこう》の肩の部分が切り裂《さ》かれる。あと一センチ深かったら、肌《はだ》まで裂けていただろう。  勢い余って、ゼルエルはたたらを踏む。その隙《すき》に、摩耶は相手の顔を蹴《け》りつけ、逃走に移った。ゼルエルはただちに追跡する。 (あきらめないで! 考えて! 考えるのよ!)  高速でトンネルの中を飛行しながら、摩耶は絶望に負けそうになる自分を叱咤《しった》していた。殺されるわけにはいかない。捕まるわけにもいかない。アザゼルにそう誓《ちか》ったのだから。  彼女は必死で思考をめぐらせた。天使の弱点とは何だろう? 天使は何に弱いのだろう? 「そろそろ終わりのようだな……」  すでに全身に深手を負い、大量の血を流しているアザゼルを見下ろし、メタトロンは勝利を確信していた。 「くそ……」  アザゼルは一四の口で歯ぎしりした。悔しいが、この状態では反撃《はんげき》に出られない。元素転換の進行を食い止めるので精いっぱいだ。背中の傷もそうだが、さっき鉄蝗《アルベー》に刺された傷もずきずきと痛む……。 (ん? 待てよ……)  彼の頭にあるアイデアが閃いた。とてつもなく危険な案だ。チャンスは一度だけで、失敗すればただちに死んでしまう。  だが、今はこれに賭《か》けるしかなさそうだ。 「ううー……」  うめき声とともに、アザゼルの巨体から急に力が抜け、七本の首ががくりと垂れ下がった。抵抗《ていこう》をやめたため、石化が急に進行しはじめる。一二枚の翼《つばさ》が次々に石になり、さらに胴体《どうたい》も石になってゆく。 「力つきたか……」  メタトロンはふっと嘲笑《ちょうしょう》を浮かべた。これで最大の邪魔者《じゃまもの》は消えた。予定通りに計画を進められる……。 「ぎゃあっ!?」  ポテンティアテスの叫人が上げた悲鳴が、メタトロンの思索《しさく》を中断した。 「どうした!?」  ポテンティアテスは背中をかきむしり、激しく身をよじっていた。さらに他の天使も次々に悲鳴を上げる。  彼らの背中には鉄蝗がしがみつき、針を突き立てていた。 「しまった!」  メタトロンは自分の作戦が逆手に取られたことを知った。まだ生き残っていた鉄塊が周囲を飛び回っていたのを忘れていたのだ。鉄蝗のような知能の低い妖怪《ようかい》は、精神操作能力を持つ他の妖怪に簡単に操られる。アザゼルはメタトロンの召喚《しょうかん》した鉄蝗を逆に支配したのである。元素転換に対する抵抗をやめたのは、油断させるためと、精神力を鉄蝗《アルベー》のコントロールに集中するためだったのだ。  今や四人のポテンティアテスは激痛に苛《さいな》まれ、元素転換どころではなくなっている。アザゼルはその際を狙《ねら》って、一気に石化した身体《からだ》を回復した。 「おのれ!」  メタトロンが再び雹《ひょう》を降らせる。アザゼルはすかさず人間に変身すると、鋼鉄の伽《かせ》をすり抜け、コースターの軌道《きどう》の下に身を隠した。巨大な雹はすべて軌道に命中して砕け散り、何のダメージも与えられない。  雹が止んだとたん、アザゼルは再び巨龍《きょりゅう》に変身し、隠れ場所から飛び出した。長い首を伸ばし、空中で苦悶《くもん》している天使たちを次々に口でひっつかむ。 「うぬ……!」  さすがにメタトロンは攻撃《こうげき》を中断せざるをえなかった。アザゼルは捕らえた四人の天使を空中に掲《かか》げている。雹を降らせれば部下たちも巻きこむことになる。 「人質とは卑怯《ひきょう》だぞ!」 「お前に卑怯者呼ばわりされるいわれはないがな」アザゼルはせせら笑った。 「大天使様がそうおっしゃるなら……よかろう、フェアにやってやろうじゃないか!」  そう言うなり、アザゼルは四人の天使をずたずたに引き裂《さ》いた。 「さあ、人質はいなくなったぜ!」  アザゼルは血まみれの一四の口でにたりと笑った。 「何という奴《やつ》だ……」  さしものメタトロンも戦慄《せんりつ》を隠せなかった。  ジオポリス内にある別の遊戯施設《ゆうぎしせつ》、ゾンビパラダイス。  機械|仕掛《じか》けのゾンビが立ち並ぶ幽霊屋敷《ゆうれいやしき》の中を、ゼルエルは自らの全身から発するオーラを照明代わりにしながら、コースターの軌道に沿ってずんずんと進んでいった。あの悪魔《あくま》がここに逃げこんだのは間違いない。必ず見つけ出し、とどめを刺してやる……。  コースの終わり近く、屋敷の大広間で、ゼルエルは摩耶を発見した。  彼女はゾンビの人形の一体にしなだれかかっていた。鎌は床に放り出されている——武器だけではなく、衣服もすべて。 「ねえ、来て……」  摩耶は裸《はだか》の胸を手で隠《かく》しながら、震《ふる》える声で天使を誘《さそ》った。何とか微笑《ほほえ》もうとするのだが、顔がこわばって笑顔が作れない。 「ねえ……私が欲しいんじゃないの……う」 「なるほど……」  ゼルエルはにやりと笑うと、室内に足を踏《ふ》み入れた。油断なく鎌を構えたまま、ゆっくりと大股《おおまた》で少女に近づいてゆく。 「天使は色香に弱い、と踏んだのか。確かにそれで堕落《だらく》した天使も多い……」  摩耶は震えが止まらなかった。天使までの距離は、もうほんの四メートル。何の装甲《そうこう》もない今は、鎌のひと振りであっさりまっぷたつにされてしまうだろう。  無謀《むぼう》な賭《か》けだが、やってみるしかない。 「だがな……」  ゼルエルはぴたりと立ち止まり、少女のこざかしい計略を嘲笑した。 「私にそんな手は通用せん!」  そう言うと、彼は金色の鎌を大きく振り上げ、裸で震えている少女に向かって振り下ろそうとした。だが、その刃《やいば》は寸前でぴたりと止まった。 「な、何!?」  ゼルエルは狼狽《ろうばい》した。いつの間にか背後に身長二メートル以上ある黒い怪物《かいぶつ》が立っていて、太い腕で彼をがっしりとはがい締《じ》めにしているのだ。ゼルエルは懸命《けんめい》にもがくが、簡単には振りほどけない。  摩耶は夢魔を分離し、ゼルエルの背後に実体化させたのだ。服まで脱いだのは、装甲を解いた目的を怪《あや》しまれないためだ。 「そのまま!」  そう叫《さけ》ぶと、摩耶は床に置いておいた鎌を拾い上げ、動きを封《ふう》じられたゼルエルに突進した。 「いやああああああああーっ!」  絶叫《ぜっきょう》しながら、ゼルエルの顔面めがけ、重い鎌を力いっぱい振り下ろす。鋭《するど》い刃が正確に眼に突き刺さった。 「があああーっ!」  天使は恐《おそ》ろしい悲鳴を上げた。鎌をねじりながら引き抜くと、眼窩《がんか》から血が噴出し、摩耶の白い肌《はだ》に降りかかった。 「さあ、どうする!? どっちかが死ぬまでやるかい!?」  アザゼルに脅《おど》されても、メタトロンは空に浮かんだまま、態度を決めかねていた。アザゼルは重傷を負っており、今が倒《たお》すチャンスであるのは間違いない。だが、こちらも手勢の半数以上を失い、残りも負傷して浮き足立っている。傷ついていても、アザゼルは恐ろしく強い。彼が死に物狂いで暴れれば、メタトロン自身の生命も危ない……。  二人が空中でにらみ合っているところに、戦いを終えた摩耶がジオポリスから浮上してきた。  手には血にまみれた鎌を持っている。それを見てメタトロンは舌打ちした。 (あのゼルエルまでやられたか……)  その事実が彼に決意させた。 「引け」  彼は部下にそう命じると、自分も夜空に向かって上昇《じょうしょう》しはじめた。その姿がぐんぐん小さくなってゆく。 「……やれやれ」  天使たちの姿が完全に見えなくなると、アザゼルは大きく安堵《あんど》のため息をついた。緊張《きんちょう》が解けたせいで浮遊力が弱まり、空中でぐらりとよろめく。摩耶は慌《あわ》ててその首を支えた。  彼女は胸が締めつけられる想いがした。傷だらけの巨龍の姿はあまりにも悲惨《ひさん》だ。東京から逃げていれば、こんな目に遭わずに済んだのだ。私がわがままを言ったばかりに……。 「……だいじょうぶ?」 「あんまりだいじょうぶじゃないな……」彼は正直に言った。「だが、次の戦いまでには回復しておかないとな。それに——」 「それに?」 「お楽しみもあることだし……なあ?」 「ええ……」  摩耶は黒い仮面の奥《おく》で頬《ほお》を赤らめた。 [#改ページ]    インターミッション 夜明け  東京都渋谷区・道玄坂一丁目——  二〇〇〇年六月二日・午前四時三〇分(日本時間)——  太陽が昇《のぼ》ってくる頃《ころ》には、被害の大きさが分かってきた。ラジオはひっきりなしに増える被害報告や犠牲者《ぎせいしゃ》数を読み上げる一方、被災者に避難《ひなん》場所を指示したり、火事などの二次災害を防ぐための諸注意を流している。あと何時間かすれば、関東以外の地方の人々も目覚め、テレビのスイッチを入れて、大惨事の報道に驚くことになるだろう。  最終的に犠牲者数は二万人を超《こ》えると予想されていた。 「……ねえ、あたしたち、勝ったのかな?」  疲れきって瓦礫《がれき》の上に座りこみ、変貌《へんぼう》した道玄坂の街並みを見渡して、湧がつぶやいた。ついさっきまで、自慢《じまん》の聴力を生かして、瓦礫の下に生き埋《う》めになった人を発見するなど、ボランティア活動に走り回っていたのだ。 「こっちの犠牲者は二人……」  そう答えたのは、隣に座っている雷華である。人間の姿になり、栄養補給のためにチョコレートを頬張っている。 「それに対して、こっちは少なくとも二〇人以上の敵は倒《たお》したわ。軍人に言わせれば『戦術的には勝利』ってとこなんでしょうね。でも……」 「でもねえ……」  二人は振り返った。倒壊《とうかい》した雑居ビル—— <うさぎの穴> のあったビルの前で、かなたと摩耶が抱き合ったまま、もう何時間も泣き続けている。  この朝、関東各地で、何千という同様の光景が見られたことだろう。 「まあ、不謹慎《ふきんしん》かもしれないけど、二人の犠牲で済んだのは幸運だったわ」雷華は暗い顔で言った。「あの店にいた六人とも、全滅してたかもしれないもの。摩耶ちゃんの機転と、うわべりのお手柄《てがら》ね」 「ほんと。いきなりうわべりがテレビから出てきた時はびっくりしたよ」  うわべりは電波|妖怪《ようかい》だ。全身が銀色の針に覆《おお》われた単眼の怪物で、普段は空中を飛び交う電波の世界に住んでいるが、テレビの画面を通って現実世界に出てくることもある。うわべりを呼び出すには、テレビの画面を南西に向けて空きチャンネルに合わせ、テレビの前に人数分プラス一本の缶ビールを置いてリングプルを開ければいい。ビールの匂《にお》いに誘《さそ》われてうわべりが現われる。  携帯《けいたい》電話が通じず、追跡されているので <うさぎの穴> にも近づけないと知った時、摩耶はそれを思い出したのだ。千駄木で自販機を壊して缶《かん》ビールを手に入れ、それを使って、上野のホテルの一室でうわべりを呼び出した。そして事情を説明し、 <うさぎの穴> に知らせるよう頼んだのだ。  店内に一人残っていた大樹は、うわべりから話を聞いて、次にこの店が狙われると判断した。そこでうわべりに頼んで、東京都内に散らばっている <うさぎの穴> のメンバーの自宅はもちろん、秋葉原《あきはばら》の <海賊《かいぞく》の名誉亭《めいよてい》> など他のネットワークにも連絡を取り、応援《おうえん》を要請することにしたのだ。うわべりは電波に乗って東京中のテレビからテレビへと飛び回り、妖怪たちをどうにか三〇分で渋谷にかき集めたのである。  うわべりの存在を知らなかったことが、天使側の敗因と言える。 「そう言えばあいつ、戦闘《せんとう》の間、姿見せなかったね?」 「現われようにも、テレビが映らないんじゃね」 「あ、そっか……」  都心部の停電はしばらく続くだろう。阪神大震災《はんしんだいしんさい》の際、電気やガスの復旧を急ぎすぎたため、各所で漏電《ろうでん》やガス漏《も》れによる火災が多発した。その轍《てつ》を踏《ふ》まえて、慎重《しんちょう》に復旧作業を進めることになっている。 「それにしても、とんでもない敵だったなあ」 「『だった』なんて過去形は……」 「そうだよねえ……」  湧は廃墟《はいきょ》を眺《なが》め、考えこんだ。考えれば考えるほど恐ろしくなり、陰鬱《いんうつ》になる。  そう、戦いは終わってなどいない。今回の戦いは、さらに大きな戦争のほんの前哨戦《ぜんしょうせん》にすぎないのだ。  ハルマゲドンと呼ばれる戦争の。 [#地付き]つづく   [#改ページ]    妖怪ファイル [#ここから5字下げ] [フェザー(堕天使《だてんし》アザゼル)] 人間の姿:黒髪の美青年。数多くの偽名を持つ。 本来の姿:七本の蛇の首と一四の顔、一二枚の翼を持つドラゴン。 特殊能力:空を飛ぶ。炎を吐く。姿を消す。元素転換。傷を治療する。思考操作。炎に対する耐性。 職業:様々。 経歴:二五〇〇年前に誕生。かつては天使だったが、人間を愛するようになり、人類を守るために天使と戦うようになる。 好きなもの:純真な女性。 弱点:女の涙に極端に弱い。 [天使] 人間の姿:中性的な魅力を持つ青年(ガブリエルのみ女性)。 本来の姿:背中から翼の生《は》えた美青年。武装した者もいる。 特殊能力:空を飛ぶ。姿を消す。他にも、透視、元素転換、火炎、地震、雷、思考操作など、天使によって様々な特殊能力を持つ。 職業:たいていは無職。 経歴:天使を信じる人の心から生まれた。�神�に仕《つか》えている。 好きなもの:特になし。 弱点:翼を焼かれると飛べない。一部の天使は、酒や女の誘惑に弱い。 [メタトロン] 人間の姿:金髪で長身の美青年。 本来の姿:身長三メートル。三六枚の翼を持ち、全身に無数の眼がある天使。 特殊能力:空を飛ぶ。姿を消す。透視。無生物を生物に変える。鉄蝗《アルベー》を召喚する。 職業:なし。 経歴:四大天使の一人。�神�に仕えている。 好きなもの:人間を苦しめること。 弱点:特になし。 [鉄蝗《アルベー》] 人間の姿:なし。 本来の姿:人間の顔、長い髪を持ち、尾がサソリのようになった蝗。頭に金の冠。胸に鉄の胸当てをつけている。 特殊能力:空を飛ぶ。尾の針で人を刺す。 職業:なし。 経歴:『黙示録』から誕生。地の底にひそみ、天使によって召喚される。 好きなもの:特になし。 弱点:炎。 [ホーミィ・ザ・クラウン] 人間の姿:黒人男性。 本来の姿:右手にサブマシンガン、左手にチェーンソーを持ったピエロ。 特殊能力:結界を張って子供の悲鳴が周囲に聞こえないようにする。 職業:ピエロ。 経歴:アメリカの子供たちの間に広まった都市伝説から生まれた。 好きなもの:子供いじめ。くだらないジョーク。 弱点:特になし。 [ジャージーデビル] 人間の姿:人相の悪い中年男。 本来の姿:上半身が人間で、一一本の脚、巨大な翼、長い尻尾があり、全身が緑色の縞模様《しまもよう》の毛に覆《おお》われている。 特殊能力:火炎を吐く。空を飛ぶ。 職業:なし。 経歴:ニュージャージー州の伝説から誕生。 好きなもの:人をこわがらせる。 弱点:特になし。 [キルドーザー] 人間の姿:黄色いオーバーオールを着た巨漢。 本来の姿:ブルドーザー。 特殊能力:怪力。頑丈な肉体。 職業:犯罪者。 経歴:工事現場で事故を多発させたブルドーザーに、人々の恐怖の念が宿った。 好きなもの:何かをぶっ壊すこと。 弱点:泳げない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  ひゃーほほほほほほほほ!  いや、どうも。ホーミィ・ザ・クラウンをあっさり殺しちゃったのは惜しいことしたなと思ってる山本弘です。 <妖魔夜行> シリーズで僕が長編を書くのは、九三年の『悪夢ふたたび……』以来、七年ぶりということになります。どうして七年間に摩耶《まや》ちゃんが二歳しか年取ってないんだ、といった無粋なツッコミはご遠慮願います(笑)。フィクションの世界の時間経過は現実世界とは違うものなんです(ブルース・ウェインなんかもう六〇年もバットマンやってるし……ちょくちょく子供時代の回想シーンが出てくるけど、彼の子供時代っていったい何年前?)。  さて、今回、 <妖魔夜行> の世界は大変なことになっています。本はあとがきから読むという方のためにネタバレは避けますが、ついにシリーズ最大最凶の敵が出現し、地球滅亡の危機が迫ったのです。  無論、 <うさぎの穴> の連中だけでは、とうてい勝ち目はありません。これまでリプレイにしか登場しなかった <海賊の名誉亭> をはじめ、悪のネットワーク <ザ・ビースト> や、海外のネットワークの妖怪たちも大挙登場して、地球の命運をかけた一大決戦を展開します。  当初は一冊で完結させる予定だったのですが、スケールが大きくなりすぎて一冊では収まりきらなくなり、急遽《きゅうきょ》、二分冊ということになりました(編集の主藤さん、ご迷惑をかけて申し訳ありません)。  今回の敵、唐突な登場のように思われるかもしれませんが、実はシリーズの立ち上げ当初から、ずっと構想していたものです。 <妖魔夜行> の世界観からすると、当然、存在しなくてはならないはずだからです。いつかこの話をやりたかったからこそ、読者のみなさんからよく寄せられる「 <妖魔夜行> の世界には……は存在するんですか?」というご質問にも、明確な回答を避けてきたわけです。  第四章を読んでいただければ分かりますが、これが回答です。  当然、この説明を読んで「……はそういうものじゃないはずだ!」と思われる方がおられるであろうことは、百も承知です。実はフェザーの解説はおおむね真実ではあるのですが、彼はまだ真相の一面しか語ってないのです。本当のところはというと……おっと、それは下巻のお楽しみということにしておきましょう。  ちなみに今回、設定上の厳密さを心がけるために、大量の資料を読みあさりました。それらの参考文献は下巻の巻末にまとめて表記いたします。  もちろん、完全に正確というわけではなく、話を面白くするために事実をねじ曲げている部分がけっこうありますから、あまり信じないでいただきたいんですが(笑)。  さて、この長編を境にして、 <妖魔夜行> の世界はリニューアルします。長らく主要な舞台となっていたバー <うさぎの穴> は壊滅、おなじみのメンバーのうち何人かは激しい戦いで生命を落とします。今後は新たなネットワークを舞台にして、新しいキャラクターによる物語がスタートします。  ゲームもそれにリンクして、テーブルトークRPG『妖魔夜行2ndステージ』(仮題)の企画が進行中です。基本システムは同じですが、新ルールや新データを盛りこむのはもちろん、妖怪と人間との関わりなど、世界設定の面でもいろいろと変化があります。  長らくシリーズに親しんでいただいてきた方々には、つらい展開かもしれません。もっとも、以前からのメンバーがみんないなくなるわけではありません。生き残っている者は再登場するでしょうし、死んでしまった者もいずれ何らかの形で復活することもあるでしょう(なんせ妖怪ですから)。  僕としては、これまで育て上げてきたキャラクターたちの卒業式という想いでこの長編を書いています。とりあえず、下巻での摩耶ちゃんの成長ぶりにご注目ください。  下巻ではアメリカに舞台が移ります。第一章に登場したニューヨークのネットワーク <Xヒューマーズ> も大活躍、摩耶ちゃんとガンチェリーの日米美少女キャラ共演など、盛りだくさんの内容です。  この <Xヒューマーズ> 、各キャラの設定はもちろん、小説には登場しないメンバーも何人か設定してあります。いずれ何かの機会にご紹介したいですね。  それでは、下巻をお楽しみに! [#地付き]山本 弘  [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  シェアード・ワールド・ノベルズ  妖魔夜行《ようまやこう》 戦慄《せんりつ》のミレニアム(上)  平成十二年四月一日 初版発行  著者——山本《やまもと》弘《ひろし》